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第十四章  密室を開く 二(7)
日期:2023-12-29 16:19  点击:273

 洗面台のうえには鏡がかかっているのだけれど、哀れな天坊さんは洗面台に身をかがめ

ていたので気がつかなかった。

 犯人は天坊さんの後頭部に両手をかけ、全身の力をこめて、天坊さんの顔を満々とたた

えられた洗面台のなかに突っ込んだ。天坊さんはむろんもがいたにちがいない。必死に

なって抵抗したであろうが、侏儒のような天坊さんは非力であった。こうして老いたる元

貴族は、世にも残忍な方法で死にいたらしめられたのであろう。

 この際、犯人としてだれがいちばん適任かという事実に思いいたったとき、田原警部補

も井川刑事も全身をつらぬいて走る戦慄をおさえることができなかった。

「しかし、先生……」

 井川刑事の声は咽喉にひっかかってふるえている。凍りついたような部屋の空気が、こ

の海千山千の老刑事をも、ふるえあがらせずにはおかなかった。

「タマ子は……? タマ子は……?」

 金田一耕助の顔が急にきびしく引き締まった。自責の念がかれの表情を凶暴なものにす

るのである。しかし、その顔はすぐ重っ苦しい沈痛の色の底に沈んでいくと、

「あの娘は不ふ憫びんでした。おそらくあの娘はひそかに犯人のあとをつけてこの部屋ま

できたのでしょう。そのときドアに鍵はかかっていなかった。タマ子はしばらく廊下で

待っていたでしょうが、犯人がなかなか出てこないので、ドアを開いてなかへ入ってきた

のでしょう。あの娘もまさか部屋のおくで、このような惨劇が演じられていようとは気が

つかなかったので、二、三度犯人の名を呼んだにちがいない。その声によって犯人は相手

がだれであるかに気がついた。犯人にとっては自分がこの部屋にいたことを、ひとに知ら

れること自体が致命的なエラーですね。犯人はとっさのうちに天坊さんのガウンのバンド

を外し、なにくわぬ顔でこの居間へ出てきた。タマ子もおくになにがあるかを知っていた

ら、もっと警戒したでしょうが、不憫なタマ子はそれを知らなかった。だから犯人にはい

くらでも乗ずる隙すきがあったにちがいありませんね」

 ふたたび三たび田原警部補と井川刑事の全身を、もの凄まじい戦慄がつらぬいて走っ

た。部屋の空気が氷のようにつめたいと思い出したのも、心理的なものだったろう。

「それを犯人が絞め殺し……それからどうしたんです」

「ゆうべ……いや、もうおとといになりますが、あの晩隣のダリヤの間はあけっぱなしに

なっていました。だから抜け穴の口から投げ込むか、あるいは吊つるしておいたのでしょ

う。女というものは和服を着るとき、ずいぶんたくさんの紐をしめているものです。それ

らの紐やガウンのバンドをつなぎあわせると、そうとうの長さになるでしょうからね」

 事実タマ子の着物はひどく乱れていたのである。紐類をいったん解かれてまた結ばれた

のではないかという疑問を、金田一耕助がもったとしてもうなずけないことはない状態

だった。

「それから……? それからどうしたんです」

「それからまたこの部屋へとってかえして、天坊さんを浴槽につけ、シャワーを出しっぱ

なしにしておいて、そこらじゅうを引っかきまわしたが、目的のものはえられなかった。

犯人はあまりぐずぐずはできなかった。第二のタマ子がやってくるかもしれませんから。

そこで針と糸をつかって密室を構成しておいて、ここから逃げ出していったということで

しょうね。それはおそらくわれわれが抜け穴のなかにいる時分だったでしょう。なぜなら

ばわれわれが抜け穴から出て来て、お糸さんをこの部屋へよこしたとき、すでにシャワー

の音がきこえていたそうですから」

 それはまた、天坊さんの腕時計のとまっていた時刻とも一致するのである。

「犯人が糸と針とを用意していたとすると、そいつはこの部屋へやってきたとき、すでに

殺意をもっていたということでしょうね」

「犯人はひじょうに追いつめられた、切羽づまった気持ちだったでしょうからね。それに

凶行後糸と針をとりに走るという度胸は、いかに残忍なこの事件の犯人にもなかったで

しょうよ」

「金田一先生、犯人はなぜこの部屋を密室に仕立てておいたのでしょう」

「そこがこの事件の興味あるところですね。犯人はあくまで捜査を混乱させるつもりだっ

たのじゃないでしょうか。あるいはまずこうすれば密室の殺人が構成されると思いつい

た。そこでそれを実演してみせておのれの知恵をほこり、混乱する捜査陣をひそかに嘲笑

してやろうという、いわば小ざかしきエリート意識の現れではなかったでしょうか。じっ

さいは天坊さん殺しの場合、密室にしておく必要はすこしもなかったんですがね」

「しかし、金田一先生、犯人は抜け穴の底から鼠の巣そう窟くつまで、タマ子の死体を引

きずっていくのに、どこからあの地下道へ潜りこみゃあがったんでしょうな」

 それは田原警部補も知りたい問題である。金田一耕助はその眼を腕時計に落とすと、

「井川さん、あの写真ができてくるまでには、まだそうとう余裕があるでしょうね」

「はあ、往復に時間をくいますからな」

「それと井川さん、あなた足のほうはどうですか。捻挫のほうは?」

「そのほうはもう大丈夫。お糸さんに湿布してもらったら、こんなに脹はれもひいちゃい

ました。金田一先生、なにか……?」

「いまは絶好のチャンスだと思うんです。家人が寝てるまにこっそり探検したいところが

あるんですが」

「金田一先生、探検したいところとおっしゃると……?」

「鬼の岩屋のおくなんですが……」

「鬼の岩屋のおくになにか……?」

「田原さん、あなたきのう気がおつきになりませんでしたか。柳町さんはあの冥めい途ど

の井戸までわれわれを案内しましたが、それからさきへはわれわれを連れていきたくな

かったようです。譲治にしてもおなじ素振りがみえていました。けっきょくああいうこと

が起こったので、われわれはあのふたりの思う壷にはまったのですが、この機会にあのひ

とたちが、なにを隠しているのか探検してやろうと思うんですがね」

「先生はそこでなにが発見されるとお思いですか」

「塚か墓のようなものですね」

「塚か墓とおっしゃると……?」

「昭和五年の秋、あそこで非業の最期をとげたであろうと思われる尾形静馬氏のですね。

施主はもちろんお糸さんでしょう」

「チキショウ! あのクソッたればばあ」

 舌打ちして二、三歩いきかけて、

「あっ、痛ッ、タ、タ、タ!」

 井川刑事が跛びつこの脚をかかえこんだのはだらしがなかった。

「井川さん、大丈夫ですか、その脚で……なんならあなたお残りになってもいいんです

よ」

「でえじょうぶ、でえじょうぶ、金田一先生、この機会になにもかもハッキリさせておい

てくださいよ。それでねえとわたしゃ黄泉よみじのさわりになりまさあ」

「あっはっは、金田一先生、このおやじさんときたら、昭和五年の一件に執念をもやしつ

づけてきたひとですからね。いっしょに連れてってやってください」

「いいですとも。べつに急ぐことはないんですからね」

 それからまもなく三人が、鬼の岩屋に潜入したのは、まさに深夜の一時であった。


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06/27 00:10