「いいや、いいや、今夜こそ犯人にとっては絶好のチャンスなんだ。犯人はまだ糸と針の
トリックが暴露したことをしってはいない。陽子さんも地下道での襲撃者のすがたを、
ハッキリ見ていないのではないか。しかも、片腕の怪人が地下道をうろうろしてると、わ
れわれが信じていると思いこんでいる。だから犯人はまだ逃げられると思っているんだ。
ところでそのときの篠崎さんのようすはどうだったんです?」
「ひどく泥酔していて、そ、そういえばなんとなく自嘲的で、万事に投げやりな態度でし
た」
日ごろ冷静な田原警部補も、そのときばかりは顔面が硬直して、懐中電灯を持つ手がふ
るえている。
「金田一先生、このモグラの穴へ潜り込むのが、いちばん早いんじゃねえんですか」
「おやじ、よせ、それはおれがやる!」
「いいですよ、脚の一本や二本……おんや」
モグラの穴へ潜りかけて、井川刑事はなにやら拾いあげると、懐中電灯で調べている。
「おやじ、どうした」
「これ、あの笛吹きの先生が口にくわえていた洋モクじゃねえか。先生、あの音楽家の先
生、ゆうべこの鬼の岩屋のなかでタバコ吸ってたんですか。いんや、そうじゃねえな、こ
の吸い殻がら、ちっとも湿っちゃいねえ」
井川刑事が拾いあげた吸い殻を中心に、三人は無言のまま顔を見合わせた。それはたし
かにあのヘビー・スモーカーの柳町善衛が、かたときも口からはなさぬ外国タバコの吸い
殻で、湿りけもなくまだ新しかった。
「田原さん、柳町さんもあのとき陽子さんの寝室にいましたね。篠崎さんが今夜奥さん
と、日本座敷のほうで寝るということを……?」
「そうだ、あの男もきいていました。じゃあの男もこんや日本座敷のほうで、なにか起こ
るということを……?」
その柳町善衛の部屋も廊下のほうから監視されているのだけれど、もし窓から脱出した
とすれば、張り込みの刑事も気がつかなかったであろう。事態は切迫しているようであ
る。
「とにかくここへ潜り込んでみるのがいちばんだ。ひとつやっつけべえか」
改めてモグラの穴へ潜りかけて、井川刑事がギョッとそこで立ちすくんだのは、当時こ
の裾すそ野ののみならず、日本中を震撼させたあの最初の一発がきこえてきたからであ
る。
ズドン!
鈍い、陰にこもった物音が、地下の遠くからひびいてきたかと思うと、
ズドン!
ズドン!
と、二度ほどおなじ物音があとにつづいて、
「金田一先生、あれ銃声じゃありませんか」
井川刑事が口走ったとき、金田一耕助はおもわず懐中電灯の光のなかに腕時計をかざし
てみた。
時刻はまさに午前二時半。昔のひとが草木も眠るといった丑うし三みつ時どきだ。
金田一耕助は膝ひざ頭がしらがガクガクふるえた。これはかれの大きな誤算である。犯
人がいかに思いあがっているとはいえ、最後の凶行にひとの注意をひきやすい、ピストル
を用いようなどとは夢にも思い及ばなかった。それともピストルをぶっ放したのは、被害
者のほうであろうか。
一瞬三人はでくの棒のように立ちすくんでいたが、つぎの瞬間、
「チキショウ!」
と、井川刑事が歯ぎしりをして、モグラの穴へ潜り込もうとするのを、
「おやじ、おまえはいけない!」
肩をとって引きもどすと、
「おれがいってみる」
満面に朱を走らせた田原警部補が、モグラの穴にむかって身をかがめたとき、
ズドン!
と、第四発目がさっきよりだいぶんまぢかに聞こえ、ほんのしばらくおいたのち、鋭い
女の悲鳴が地底の闇やみをつんざいたかと思うと、
ズドン!
ズドン!
と、銃声が二発つづいたが、それがあの腐朽荒廃の極に達した地下道の耐えうる限界
だったにちがいない。もの凄すさまじい地響きを立てて地下道の崩壊する音が、あとから
あとからとモグラの穴から伝わってきた。
「危ない!」
金田一耕助が足をとって引きもどしたので、田原警部補も潜入をあきらめて、惘もう然
ぜんとして立ちすくんでいる。