ふつうの女性ならばここで悲鳴をあげて、もときた道へ逃げてかえったことだろう。陽
子はしかしそうしなかった。血も凍るような恐怖とともに、勃ぼつ然ぜんとしてこみあげ
てくる激しい怒りをおさえることができなかった。だれがこのような残虐をあえてした
か、彼女にはわかるような気がしたのだ。それはこの地下道の第三の入り口を、しってい
る人物以外には考えられない。
彼女も慎吾の娘なのである。と、いうことはなみなみならぬファイターだということな
のだ。陽子は眼をつむってひと息にその歩み板を踏みこえた。心の中であの気の毒なタマ
子の冥めい福ふくを祈り、それゆえにこそなおいっそうの復讐心にもえながら、陽子は恐
れずに前進した。
あの揺らめく壁に手をついたのは、左手であったことを彼女は憶えている。したがって
こちらからいくと右側になるわけだ。しかも、そこからまもなくカーブがあり、カーブを
まがるとしばらくして鼠の陥穽にいきあたったのだ。
まもなくカーブにやってきた。そこをまがると陽子の歩調はにわかに慎重になってく
る。右側の壁に懐中電灯の照射を浴びせながら、一歩一歩壁をなで、反響をためすように
たたいてみる。ときどき強く押してもみた。
五歩、十歩、二十歩と、彼女はまるで患者の胸に聴診器を当てる医者のように、注意ぶ
かく右側の壁を診察してあるいた。彼女は以前からしっていたのだが、この地下道は昔か
らある天然の洞窟と、煉瓦とセメントで補修した部分とで成り立っているのである。
いまこうして点検して歩いていくと、天然の洞窟の部分と補修した部分とが、半々ぐら
いになっていることに気がついた。そして、補修した部分こそクサいのだ。まもなく彼女
は煉瓦とセメントで補修された部分がながながと、五、六間にわたって右側につづいてい
るところにいきあたった。そして、そのさきはまた緩やかなカーブをなしている。
そうだ、あのとき自分はむこうから歩いてきて、カーブをひとつまがったのだ。それか
らまもなくなにかにつまずきよろめいて、左手を強く壁についたのだ。そしたら壁がぐら
ついたと思った瞬間、天井から煉瓦が降ってきたのである。
あった!
と、陽子は口のうちで小さく叫んだ。
煉瓦が四、五枚落ちて散乱している。しかもその少しむこうに煉瓦でかためた床の煉瓦
が一枚うきあがっていて、鋭い突起のようなものを形造っている。そして、そのむこうは
すぐカーブになっている。
そうだ、あのとき自分はカーブをまがったばかりだったので、この煉瓦の突起に気がつ
かなかったのだ。身をかがめて調べてみると、一枚うきあがった煉瓦の角にすこし欠けた
ところが発見された。
陽子はそこをいきすぎるとカーブをまがった。そこでくるりと回れ右をすると、改めて
もときた道へ引き返し、カーブをまがると煉瓦の突起につまずいたところで、はげしく左
の肩を壁にぶっつけた。
手ごたえはあった。
煉瓦の壁がぐらりと揺らめいたかとおもうと、天井から二、三枚の煉瓦が落ちてきて、
その一枚が大きくバウンドして転がると、その震動でまた二、三枚煉瓦が落ちてきた。大
きな音を立て、その反響があちこちの壁に谺こだました。
だが、その反響よりも陽子の心臓の鼓動のほうが大きかった。
陽子は立ちすくんだまま谺のおさまるのを待っている。いや、陽子の待っているのは、
谺の消えるときではない。自分の心臓の高鳴りのやむのを待っていたのだ。やがて心臓の
鼓動がやや下火になるのを待って、陽子は懐中電灯を持ちなおし、左側の壁を調べはじめ
た。
植物というものは太陽光線がなくとも、空気と水分さえあれば育つものらしい。この地
下道には空気も水も十分ある。その壁にはさまざまな苔こけと、ひょろひょろとしてまっ
白な隠花植物が、ところまだらに生えている。しかし、陽子の眼はそういう植物群にだま
されなかった。いや、むしろ植物群が彼女のかくされた扉発見に協力したのだ。ある部分
でひょろひょろとしてまっ白な隠花植物が、むしられたり、押しつぶされたり、壁と壁の
あいだの隙間に挟まれたりしているところがあった。