イハレビコの東征
天下を治める地を求めて東へと旅立った日向の御子たち
◆東征軍に土豪ナガスネヒコが襲いかかる
日向に降りたニニギの血統に山の神、海の神の血を受けたウガヤフキアヘズが誕生する
ことによって、以降の系譜に連なる天皇家の日本支配の条件は整った。
ウガヤフキアヘズの四人の御子のうち、長男のイツセと末子のカムヤマトイハレビコ
は、天下を治めるためにふさわしい地を探して、東への遠征を決める。高千穂の宮を発っ
た彼らは海路豊とよの国くにの宇う沙さに着き、歓待を受ける。続いて、筑つく紫し国の
岡田宮にて一年滞在、阿あ岐き(安芸)国の多た け里りの宮みやに七年間滞在した。さ
らに吉き備び国の高島宮に八年滞在し、十六年目にしてようやく河内国白しら肩かたの津
つに至った。大和を目指した背景には天てん孫そん降こう臨りんと大和朝廷を結びつける
意味があったと思われる。
ここまではゆったりとした進軍であるが、白肩津に上陸してから様相は一変する。大和
の登と美みに勢力を張る土豪ナガスネヒコが一行に攻撃を加えてきたのだ。イハレビコは
楯を使って奮戦するなど、東征軍は応戦するが、イツセが負傷してしまう。イツセは日の
御子である自分が、太陽に向かって戦ったのがよくなかったと言い、南へ回ることを提案
するが、迂回の途中、紀きの国くににて力尽き息絶えるのだった。
この戦いの模様を伝えるかのように、楯をとって戦った地を楯たて津つ、南へと回った
海で血のついた手を洗った所を血ち沼ぬまの海、イツセが「賤しい奴にケガを負わされ死
ぬことになるとは」と、雄お叫たけびを上げて亡くなった紀伊の水門を男お之の水みな門
とと名づけるなど、ナガスネヒコ(トミビコ)との戦いは地名起源説話を多く伴ってい
る。
ところで、この東征の主人公イハレビコこと神武天皇は、その実在自体が謎とされてい
る。崇す神じん天皇や天武天皇など、ほかの天皇と同一人物という説も根強い。
東征伝説に関してもヤマトタケルの遠征や継けい体たい天皇の流浪、また九州にあった
邪や馬ま台たい国こく東とう遷せんの反映とみなされることもある。
『日本書紀』との違い
コラム 正史のみに記されるイハレビコの兄たちの意外な行く末
イハレビコ(神武天皇)にはイツセ、イナヒ、ミケヌ(ミケイリ)という三人の兄がい
たが、『古事記』でともに東征に出るのは長兄イツセのみで、イナヒ、ミケヌの姿は見受
けられない。だが、『日本書紀』では、四人全員で東征に向かっている。
その最期についても長男イツセが途中で戦死する様子が「記紀」共通して明確にされる
が、『古事記』ではほかのふたりに関する記述はない。
『日本書紀』が記すふたりの兄の最期について、まず次兄イナヒは、熊野から海を渡ると
きに嵐に遭った際、それを嘆いて海に入り、サビモチの神になったとする。三兄のミケヌ
もこれを恨んで常世国へと去っていったと記されている。
こうしてイハレビコは兄弟でひとり取り残されたのであるが、これは一説によると、兄
弟争いが繰り広げられたのではないかと指摘されている。
これに勝利したのがイハレビコだったというわけだ。
だが三男ミケヌには興味深い伝承がある。宮崎県の高千穂神社の社伝によると、ミケヌ
が高千穂の地に戻り、現地を荒らしていた鬼き八はちという鬼を退治したというのだ。
それによれば、ミケヌは東征の途中で高千穂に引き返した。ところが故郷は、洞窟に住
む鬼八に支配されていた。ミケヌは、この鬼を見事退治すると、その体をバラバラにして
高千穂神社の近くに埋めた。ところがほどなく鬼八が祟たたり、霜を降らせて農民を困ら
せる。そこで人々は神楽かぐらを舞って鬼八を鎮めた。それが高千穂夜神楽の原型だとい
う。
高千穂には、鬼八を祀る鬼八塚や、鬼八が投げたという鬼の力石などが伝わっている。
日本神話とは異なる地方独自の伝説として興味深い。
この神話通り、ミケヌは生きて帰ったのだろうか。兄弟争いから身を引いて、弟にすべ
てを託して故郷に戻ったのかもしれない。