【第四章の人々】
伊イ久ク米メ伊イ理リ ビ古コ伊イ佐サ知チノ命ミコト(垂仁
天皇)
暗殺計画を夢で知り難を逃れた天皇
第十一代垂すい仁にん天皇は崇神天皇の子で、母は皇后のミマキヒメ。崇神天皇の崩御
に伴って即位し、その生涯には多くの逸話が伝えられている。皇后に命を狙われたという
のも、そのひとつである。皇后のサホビメは、兄のサホビコと謀って垂仁天皇を亡き者に
しようとしていたのだが、あるときサホビメの膝枕で眠っていた垂仁天皇はにわか雨の夢
を見る。これをきっかけにサホビコの計略を知り、サホビコ追討の兵を挙げて難を逃れた
という。このとき、サホビメが宿していたホムチワケは、サホビコの燃えさかる砦から救
出されたが、口をきかなかった。白鳥が飛ぶのを見て、あるいは出雲に社やしろを造って
それを礼拝し、ようやく言葉を発したという。
『日本書紀』では角かく力りき(相撲)の起源も垂仁天皇の時代にあるとされる。これ
は、垂仁七年七月に出雲出身のノミノスクネが強力で知られるタギマノケハヤという人物
と角力をとって見事に破ったというもので、宮廷では両者の対決があった七月七日を相撲
節せち会えの日とし、ノミノスクネは朝廷に仕えることになったというものである。ま
た、垂仁天皇は殉死の習慣を快く思っておらず、ノミノスクネの献策によって殉死をやめ
させ、出雲から土は師じを召し出して埴はに輪わを作らせた。そのため、ノミノスクネは
土師氏の祖とされている。
垂仁天皇は在位九十九年にして崩御し、奈良市の菅すが原わらの伏ふし見みの東ひがし
の陵みささぎに葬られたと伝えられている。垂仁紀九十年に、不老長寿の実とされていた
非とき時じくの香かぐの果みを求めて派遣されたタヂマモリがそれを持ち帰ったものの、
すでに垂仁天皇はこの世になく、タヂマモリは陵みささぎの脇に非時の香果を植えると、
悲嘆のあまり命を落としたという。
垂仁天皇についての記述には、日本海周辺に関わるものが多い。任那みまな人が来訪し
て垂仁天皇に仕えたという逸話もある。これは、垂仁伝説の時代に朝鮮半島とそこに面し
た越こし国(現在の福井県)の重要性が増したためと考えられている。