第十章 ヴァーミッサ三四一支部
息のつまるような出来事がたて続けにおこった晩の翌日、マクマードはジェイコブ・
シャフター老人の下宿をひきはらって、町のいちばんはずれにあるマクナマラという未亡
人の家にねぐらを移した。この土地へきて最初に汽車の中で知りあったスキャンランが、
まもなくヴァーミッサに移ってくることになったので、ふたりはいっしょに下宿すること
にした。ほかに下宿人はなく、女主人はアイルランド生まれののんきな老婆で、よけいな
お節介をやかなかったので、ふたりは言動に気をつかう必要がなく、共通の秘密をもつ者
としてはもってこいだった。シャフターも、マクマードのことを少しは気の毒に思ったら
しく、気がむいたときに彼の家に食事に立ち寄ることを許してくれたので、エティとの交
際もとだえずにすんだ。それどころか、ふたりの仲は日ましに深まってゆくばかりだっ
た。
マクマードは、こんどの下宿の寝室でなら、にせ金用の鋳型をとり出しても安全だと感
じたので、秘密を守るという誓いをくどいほど何度もたてさせたうえで、支部の同志を何
人か部屋へ通し、その鋳型を見せてやった。彼らはみんな、帰りしなににせ金の見本を何
枚かもらってポケットに忍ばせていったが、じつに巧妙につくられていて、どこへ出して
も見やぶられるおそれはなく楽々と通用する代物だった。こんなすばらしい技術を身につ
けているのなら何もわざわざ働く必要はあるまいに、と仲間はいつも不思議がっていた。
もっとも、そこをたずねられると、マクマードは、はっきりした定職をもたずにぶらぶら
していたら警察にすぐ怪しまれてしまうからだ、と答えるのが常だった。
事実、すでにひとりの巡査に目をつけられていたが、それがきっかけとなって起った
ちょっとした出来事がかえって幸いして、立場が危なくなるどころかむしろ、マクマード
にたいそう都合のいい結果をもたらした。初めてマギンティと知りあった夜以来、マク
マードはほとんど毎晩のように彼の酒場に出かけてゆき「若い衆 ボーイズ 」たちとのつきあいを
深めた。「若い衆」というのは、この店にとぐろを巻いている危険なやくざたちがたがい
に面白半分に呼びあう名前なのである。威勢のいい態度と恐れを知らぬ弁舌とで、彼はた
ちまちみんなの人気者になり、酒場での「制限なし」のけんかでも手ぎわよくあっさりと
相手を片づけてしまうので、荒くれ者たちの尊敬をあつめた。ところが、それにもまして
彼の名声を高めるような出来事がもちあがったのである。
ある晩、ちょうど酒場のこみあう時刻に入口のドアがあいたかと思うと、鉱山警察の地
味な青色の制服を身にまとい、とんがり帽子をかぶった男がはいってきた。これは鉄道や
鉱山の所有者たちが、町の警察のたよりなさにみかねて、この土地にはびこっている暴力
団組織に対抗するためにやとっている特設警察隊なのである。この男がはいってくると店
の中は急に静まりかえり、みんなは一斉にじろじろと彼のほうを見ていたが、アメリカで
の警察と悪人の関係はまた一種独特のもので、マギンティ自身はカウンターのうしろに
つっ立ったまま、客のなかへ警察がはいってきても何の驚きも示さなかった。
「ウイスキーをストレートでくれ。今夜は冷えるね。ところで、あんたにお目にかかるの
はこれが初めてですな、議員さん?」警官がいった。
「あんたは新しい隊長さんかい?」マギンティがいった。
「そうさ。この町の法と秩序を守るためには、議員さん、あんたや町の有力者の方々にぜ
ひ協力してもらわんとな。たのみますぜ。私はマーヴィン隊長というんだがね――鉱山警
察の」
「マーヴィン隊長さんとかよ、ここはあんたなんかがいないほうがうまくやっていけるん
だがな」マギンティは冷ややかにいった。「この町にはこの町の警察ってものがちゃんと
あるんだから、輸入品は必要としないんでね。あんたたちは資本家どもにやとわれて何を
するかといえば、貧しい庶民をこん棒で殴ったりピストルで撃ったりするだけで、やつら
に金で買われた道具にすぎねえじゃねえか?」
「まあ、まあ、そんなことをここで議論したってはじまらない」警官はおだやかにいって
のけた。「われわれはおたがいにみんなそれぞれ正しいと信じる職務を果たせばいいわけ
だが、何が正しいかとなると、必ずしもみんなの見方が一致しないらしくてな」そういっ
て彼はグラスを飲み干し、くるりと背を向けて出ていこうとすると、すぐそばで不快な表
情をうかべていたジャック・マクマードの顔がふと目にはいった。
「おや! これは!」相手は頭のてっぺんから足のつまさきまでじろじろ見ながら叫ん
だ。「昔なじみがいたよ」
マクマードは少しあとずさりした。
「あんたにかぎらず、ポリ公野郎と友だちになった覚えは一度もねえぜ」彼はいった。
「知りあいといっても必ずしも友だちとはかぎらんさ」警官はにやりとしていった。「お
まえはシカゴのジャック・マクマードだな。どうみてもそうだ。ちがうとはいわさんぜ」
マクマードは肩をすくめてみせた。
「ちがうなんて誰もいってやしねえよ。自分の名をいわれておれがはずかしがるとでも
思ってるのかい?」
「はずかしがってもおかしくないはずだがな」
「いったい何がいいてえんだ」マクマードはこぶしを握りしめてどなった。
「よせ、よせ、ジャック。どなったっておれにはこたえないよ。おれはこんな石炭庫みた
いな土地へくるまえは、シカゴで警官をやっていたんだ。シカゴのならず者ならひと目み
りゃわかるさ」
マクマードはうつむいた。
「まさかシカゴ中央署のマーヴィンだっていうんじゃあるめいな!」彼は叫んだ。
「まさにそのテディ・マーヴィンさまだよ。あのジョナス・ピントウ射殺の一件はあっち
じゃ忘れていやしないぜ」
「おれが殺 や ったんじゃねえぜ」
「殺ってない? 誰の仕わざかはどうみたってあきらかじゃないか、ええ? とにかく、
あいつが死んでくれたことはおまえには好都合だったわけだ。さもなきゃ、おまえもにせ
金づかいでつかまるところだったんだからな。まあいいさ、それも過ぎ去ったことだ。と
いうのも、これはここだけの話だが――こんなことまでしゃべっていいものかどうか――
おまえを挙 あ げるには証拠不充分だったんだよ。だからおまえはあすにでも堂々とシカゴへ
帰れるってわけさ」
「ここでじゅうぶんだよ」
「そうかい。せっかくいいことを教えてやったってのに、ありがとうのひとつもいわない
とはひねくれた野郎だな」
「じゃ、ご親切ありがとうよ」マクマードはあんまりありがたくもなさそうにいった。
「おまえがまっとうな道を歩んでいるかぎり、おれは何もいうことはないさ、だがな、い
いか、もし今度ちょっとでもわき道にそれるようなことをしでかしたら、そのときは黙っ
ちゃいないよ! じゃ元気でな――議員さんもお元気で」
警官が酒場を出ていったときには、もうすでに土地の英雄がひとり誕生していた。遠い
シカゴでマクマードがやったことは、まえからひそかに話の種にはなっていた。でも彼
は、まるで人の喝采を浴びるのが苦手だとでもいわんばかりに、何をきかれても笑ってと
りあおうとはしなかったのである。ところがいまや、そのことは警察が確証してくれたの
だ。酒場のごろつきたちは彼をとりまいて、さかんに握手を求めた。彼はこのとき以後、
この社会の顔ききになった。酒にはめっぽう強く、いままで酔っぱらってしまうことはほ
とんどなかったのだか、この晩だけは、相棒のスキャンランがそばについていて下宿へ連
れて帰ってやらなかったら、一晩中英雄として歓待をうけたあげく、酒場で酔いつぶれて
しまっていたにちがいない。