『日本書紀』との違い
コラム 景行天皇御自らが乗り出したクマソ遠征
『古事記』ではヤマトタケルを疎み、遠征を次々に命じて自身は大和を動かない非情の天
皇として描かれるオホタラシヒコこと景けい行こう天皇であるが、『日本書紀』では自ら
積極的に遠征を行なっている。
また、ヤマトタケルに対しても疎むことはなく、東国遠征の最中にヤマトタケルが死去
するとおおいに嘆き悲しみ、さらにはヤマトタケルの事績を惜しんで東国への行幸へと出
ているのだ。
その『日本書紀』における景行天皇の九州遠征では、『古事記』においてヤマトタケル
の名前をヲウスに与えたはずのクマソタケル兄弟も天皇が討ち取っている。
九州へと出向いた天皇は抵抗する土つち蜘ぐ蛛もを蹴散らしつつ、南下。クマソの勢力
圏に入ると、天皇は剛勇でならすクマソのふたりの首長を討つためにその娘を籠ろう絡ら
くする。その娘が天皇に味方し、父を酒で酔わせ、そのすきに兵士が刺し殺したという。
天皇はそれからも九州の抵抗勢力を次々と平定していき、この遠征は七年にも及んでい
る。
この遠征については『日本書紀』のみならず、九州の各「風土記」にも様々な伝承が掲
載され、地名の起源伝承など多くの足跡を残している。
ヤマトタケルの登場はそのあとである。再びクマソが背いたので、今度は十六歳のヲウ
スを派遣したのだ。もちろん父に疎まれたからではない。その討伐の方法は『古事記』と
ほぼ同じで女装して入り込み、討ち取るというもの。
ただし、その敵はクマソタケルではなく、カワカミノタケルである。そしてやはりこの
カワカミノタケルから「日本やまと武たける皇子」と名づけられ、ヤマトタケルと呼ばれ
るようになったという。凱旋したタケルが父に褒められている点も『古事記』とは異なっ
ている。