【第五章の人々】
息オキ長ナガ帯タラシ日ヒ売メノ命ミコト(神功皇后)
クマソ・新羅を征討したとされる伝説の皇后
タラシナカツヒコ(仲ちゆう哀あい天皇)の皇后オキナガタラシヒメ(神じん功ぐう皇
后)。父はワカヤマトネコヒコオホビビ(開かい化か天皇)の曾孫にあたるオキナガノス
クネで、母は新羅しらぎの王子で日本にやってきたというアメノヒボコの子孫にあたるカ
ツラギノタカヌカヒメという。「記紀」に登場する皇后のなかで、最も行動範囲が広く、
『日本書紀』では巻九を神功皇后紀にあてるなど、大きく取り上げられている皇后であ
る。もっとも、その記述は伝説・説話的な部分が非常に多く、内容はクマソ・新羅の征討と
オシクマ・カゴサカの叛乱平定のふたつに大別できる。
『日本書紀』によると、クマソを討つため筑紫に滞在していた仲哀八年、空むなしの国く
にのクマソよりも宝の国の新羅を従わせよという神託が下った。仲哀天皇はこれを疑い、
従おうとしなかったところ、神の怒りに触れたのか、神託を受けてから五か月後、病を発
して急死したという。翌年、またもや神託があったため、神功皇后は妊娠している身であ
りながらクマソを討ち、さらに軍船に乗って対馬つしまから新羅に渡り、新羅王を降伏さ
せたというが、事実としては認められていない。
さらにオキナガタラシヒメは、百済くだら、高こう句く麗りをも服属させて帰国し、筑
紫で皇子ホムダワケ(応おう神じん天皇)を生んだ。『日本書紀』によると、神功皇后は
皇子の摂せつ政しようとなって、大和の磐いわ余れに若わか桜ざくら宮を造営。六十九年
間政治を執り、百歳で死去したという。
オキナガタラシヒメの事績には、タケウチノスクネ(建内宿禰)との深い関わりが見ら
れる。新羅への出兵を促した神託を審さ神に者わとして受けたのはタケウチノスクネと中
なか臣とみの烏い賊か津つの使お主みという人物であるし、オシクマ・カゴサカを退ける
にあたっても、タケウチノスクネが活躍している。
また、『日本書紀』には神功皇后と卑ひ弥み呼こを同一視しているかのような記述も見
られる。新羅出兵に向かう際の記述には、大おお三み輪わ社しやの建立、伊い都と、松ま
つ浦らなど、『「魏志」倭人伝』に関連する記事や地名が登場するのである。
歴史的事実をモデルとしていると見られる記述も多い。たとえば、仲哀天皇の崩御は、
白はくす村きの江えの戦いの直前に斉さい明めい天皇が崩御したことと似ている。また、
オシクマ・カゴサカの祖父として彦ひこ人ひとの大おお兄えという人物の名が見られる
が、これは実在した忍おし坂さかの彦ひこ人ひとの大おお兄えの皇み子こという人物をも
とにしたという説がある。「記紀」の記述は、神功皇后の事績に当時の様々な事情を反映
させているようだが、現在では神功皇后その人が、果たして実在したかどうかにも疑問が
投げかけられている。