【第五章の人々】
品ホム陀ダ和ワ気ケノ天スメラ皇ミコト(応神天皇)
多くの渡来人が来日し、日本の社会に技術革新が起こった時代の王
タラシナカツヒコ(仲哀天皇)の第四子で、母はオキナガタラシヒメ(神功皇后)。カ
ゴサカ、オシクマという異腹の兄を制して立太子し、摂政だった母の薨こう去きよの翌年
に即位した。
オキナガタラシヒメが新羅遠征に向かったときには既に胎内にあり、帰国後、筑紫国で
生まれたところから「胎中天皇」とも呼ばれる。
この出産に関しては、新羅遠征の帰途、オキナガタラシヒメが出産を遅らせるため、石
を腰に挟んだという伝説が『古事記』にある。これに対応するかのように、『筑ちく前ぜ
ん国風土記』逸文には、その石が筑前国に残っているとの記述も見られる。
応神天皇は崇神王統の正統な後継者であるはずだが、実はそうではなく、崇神王統を滅
ぼして王位を簒さん奪だつしたという説が唱えられてきた。九州における誕生という、出
生のいきさつも何やら不可解である。崇神王統は大和の氏族と考えられているが、ホムダ
ワケは河内との関係が深く、オキナガタラシヒメの受胎にあたっても住吉に祀られる三神
の神託があったとされている。
即位後の応神天皇について、『古事記』では、近江国を訪れ、ウヂノワキイラツコの母
ミヤヌシヤカワエヒメを娶ったという記事がある程度だが、『播はり磨ま国風土記』にい
くつもの巡幸伝承が掲載されている。そこでは開墾に従事したり、狩猟を行なったりと枚
挙に暇いとまがない。
また全国八幡宮の総本山宇う佐さ八幡宮の縁起によると、五七一年、宇佐に地霊が現わ
れ「我は誉ほむ田だの天すめら皇みこと広ひろ幡はた麻ま呂ろなり」と告げたといい、こ
こから八幡神は応神天皇であるとみなされるようになった。
陵みささぎは、現在の大阪府羽は曳びき野の市誉こん田だにある恵え我がの藻も伏ふし
の岡おかの陵みささぎで、誉こん田だ御ご びよう山やま古墳とも呼ばれている。
これは仁徳天皇陵に次ぐ最大級の前方後円墳である。