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ボヘミア王のスキャンダル 1(1)
日期:2024-01-29 13:29  点击:245

ボヘミア王のスキャンダル

    1

 シャーロック・ホームズにとって、彼女はいつも「あの女ひと」だ。ぼくの知るかぎ

り、ほかの名で呼ぶことはめったにない。ホームズから見て、彼女はほかの女性すべてに

まさり、その影を薄くさせる存在なのだ。といっても、ホームズはその女性、アイリー

ン・アドラーに対して恋愛感情を抱いているわけではない。すべての感情、なかでも恋愛

感情は、ホームズの冷静かつ緻ち密みつでみごとにバランスのとれた精神に相あい容いれ

ないものなのだ。ぼくが思うに、ホームズは推理と観察にかけては世界に例を見ないほど

の精密機械だ。しかしこと恋愛に関しては、まるで場違いな人間になってしまう。そう

いった感情を口にするとき、ホームズはあざけりや皮肉をまじえずにはいられない。恋愛

感情は、はたから観察するぶんにはたいへんけっこう──人間の動機や行為のヴェールを引

きはがすのにとても役立つ。だが、熟練の推理家にとっては、綿密に調節された高感度の

精神のなかにそんな異物が侵入してくると、自らの精神活動すべてに疑問を投げかける錯

乱因子になりかねない。ホームズのような人間にとって、それは精密機械に入った砂利

や、高倍率の拡大鏡に入ったひびよりも大きな障害になるだろう。しかしそんなホームズ

にとってもただ一人、特別な女性がいて、それがいまは亡きアイリーン・アドラー、謎に

包まれたあやしげな人物として記憶に残る女性だ。

 その当時、ぼくはホームズとほとんど会っていなかった。ぼくが結婚して、お互い疎遠

になっていたのだ。ぼくのほうはとても幸福で、はじめて一家の主あるじとなった男の例

にもれず、家庭を中心とした様々な出来事に、すっかり気を取られていた。いっぽうホー

ムズは、因習に一切とらわれない自由な精神のおかげで、あらゆる社交を毛嫌いし、かつ

てぼくも住んでいたベイカー街の下宿に引きこもり、古書の山に埋もれていた。そしてあ

る週はコカインにふけり、またある週は意欲満々で大望を抱くといったことを交互に繰り

返していた。つまり、麻薬に陶酔する無気力な日々もあれば、持ち前の鋭さが前面に出た

精力的な日々もあるという具合だ。それでもホームズは以前にも増して犯罪の研究に没頭

し、すばらしい頭脳と非凡な観察力を駆使して、警察があきらめた事件の手がかりを追

い、謎の解決にあたっていた。ぼくもときどき、おぼろげながらホームズの噂は耳にして

いた。トレポフ殺人事件でオデッサに招かれたとか、トリンコマリーのアスキントン兄弟

の不可解な悲劇を解決したとか、最近ではオランダ王家のための仕事を、手際よくみごと

に捌さばいたとかいう話だ。だが、そうしたホームズの活動について、ぼくは単に新聞で

読んで一般読者と同じように知っただけだ。かつての友人であり仕事仲間でもありなが

ら、それ以上のことはなにも知らなかったのだ。

 ある夜──一八八八年の三月二十日の夜──、ぼくは患者の家に往診に行った帰り(その

ころ、ぼくは開業医にもどっていた)、たまたまベイカー街を通りがかった。そしてなつ

かしい戸口の前をただ通り過ぎようとした。しかしその扉は、結婚前の妻との思い出や、

陰惨な『緋ひ色いろの研究』事件の記憶と分かちがたく結びついていて、ぼくは急にホー

ムズの顔が見たくてたまらなくなった。あの非凡な才能を、彼がいまどのように使ってい

るのか、どうしても知りたくなったのだ。ホームズの部屋は明々と明かりがともってい

て、ぼくが見上げていると、背の高いやせた彼の姿が暗いシルエットとなってブラインド

に二回浮かびあがった。あごを胸に埋めるようにしてうつむき、両手をうしろで組んで、

部屋のなかをせわしなく歩きまわっている。ホームズの気分や習慣をよく知っているぼく

には、その姿勢と動きを見ただけでピンときた。また仕事に取り組んでいるのだ。麻薬の

陶酔から覚め、新たな事件の手がかりを熱心に追い求めているのだ。ぼくはベルを鳴ら

し、かつて自分も共有していた部屋に案内された。

 ホームズは感情をあらわにすることはなかった。それはいつものことだ。しかし、ぼく

に会えて喜んでいたように思う。ろくにあいさつもしなかったが、やさしい目でぼくを見

て、肘ひじ掛かけ椅い子すにすわるよう手で合図した。葉巻のケースを投げてよこすと、

部屋のすみにある酒の入ったケースとソーダ水製造機を指さした。そして暖炉の前に立

ち、じっと考えこむような独特の表情でぼくを見た。

「結婚生活が性に合っているようだね、ワトスン。以前会ったときよりおそらく七・五ポン

ドは体重が増えているんじゃないか?」

「七ポンドだ」

「なるほど。もう少し多いかと思ったがな。きっともう少し多いよ。それに、また開業し

たんだね。もとの仕事にもどるとは聞いてなかったが」

「じゃあ、なぜわかったんだい?」

「見ればわかる。推理だよ。きみが最近、雨でずぶぬれになったことも、とんでもなく不

器用なメイドがいることもわかる」

「すごいね、ホームズ。すごすぎる。二、三世紀前なら、確実に火あぶりになっていると

ころだ。たしかにぼくはこの木曜日、田舎道を歩いてずぶぬれになって帰ってきた。しか

しもう服は着替えているし、わかるはずないと思うが。メイドのメアリー・ジェインのこ

とも大当たりだ。救いがたい不器用でね、妻がもう暇を出すと申し渡したところだ。しか

しそれもどうしてわかったんだろう?」

 ホームズはくすりと笑って、長くて繊細な二本の手をこすり合わせた。

「簡単なことさ。きみの左の靴の内側を見たんだよ。ちょうど暖炉の火があたっている部

分だが、革にほとんど平行に六本の傷がついている。あきらかに、靴底の縁にこびりつい

た泥を無造作に削り取ろうとしてついた傷だ。これで二つのことが推理できるだろう。き

みが悪天候のなかを歩いていたことと、ロンドン中の使用人のなかでも特別できの悪い、

靴に傷をつけるようなメイドがいることと。開業については、ヨードホルムのにおいをぷ

んぷんさせ、右手の人差指には硝酸銀の黒いしみをつけ、そのうえ聴診器が入っているの

が一目でわかるようにシルクハットの片側をふくらませてる、そんな紳士が部屋に入って

きたら、その人物が現役の医者であることくらい、いくらまぬけでもわかるだろうよ」

 ホームズが説明した推理の過程があまりにもあっけないものだったので、ぼくは思わず

笑ってしまった。「そうやって種あかしをしてもらうと、いつもびっくりするほど単純

で、ぼくにもできそうに思うんだけどな。だけど説明してもらうまでは、きみが次々と繰

り出す謎解きにあぜんとするばかりだ。ぼくだって目はきみと同じくらいいいはずなのに

ね」

「それはそうだ」ホームズはそういってタバコに火をつけると、肘掛椅子にどすんと腰を

おろした。「きみは見てはいるが観察はしていないのだよ。その差は大きい。たとえばき

みは、玄関からこの部屋へあがる階段をひんぱんに見ているだろう」

「もちろん」

「何度くらい見た?」

「それは、何百回も」

「では、階段は何段ある?」

「何段だって? そんなの知らないよ」

「そうだろう! 観察していないからだ。見てはいるけどね。そういうことだよ。ぼくは

あの階段が十七段あることを知っている。見るだけじゃなくて観察しているからだ。とこ

ろで、きみはちょっとした事件に興味を持っていて、ぼくのつまらない体験をひとつふた

つ記録もしてくれた。だからもしかしたらこれにも興味があるだろう」ホームズはテーブ

ルの上においてあった淡いピンク色の厚手の便びん箋せんを一枚、投げてよこした。「つ

いさっき、配達されてきたんだ。読みあげてくれるかい」

 その文面には日付がなく、差出人の名前や住所も入っていなかった。


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09/30 07:32