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ボスコム谷の惨劇(1)
日期:2024-01-29 14:09  点击:281

ボスコム谷の惨劇

 ある朝、ぼくと妻が食事をしていると、メイドが電報を持ってきた。差出人はシャー

ロック・ホームズで、つぎのような文面だった。

 二、三ニチ、暇ハナイカ? ボスコム谷ノ事件ニ関シテ依頼ノ電報アリ。西部イングラ

ンドマデ同行願ウ。空気景色トモニヨシ。十一時十五分パディントン駅ヲ発ツ。

「どうします、あなた?」妻がテーブル越しにぼくの顔をのぞきこんだ。「いきます

か?」

「ううん、どうしたものかな。診察の予定がたてこんでいるからな」

「患者さんならアンストラザーさんが代わって診てくださるでしょう。最近、少し顔色が

悪いわ。気分転換をなさったほうがいいでしょう。それに、シャーロック・ホームズさん

のお仕事には、いつもあんなに興味を持っているじゃない」

「そりゃあ、興味を持たなきゃ恩知らずってもんだろう。きみといっしょになれたのも、

彼の手がけた事件のおかげだからね。しかし、もしいくんだったら、すぐ荷造りをしない

と、三十分しか時間がない」

 アフガニスタンでの軍隊生活のおかげで、ぼくは少なくとも旅の準備だけは素早くでき

る人間になっていた。必要なものはごくふつうの品がほんの少しだから、三十分以内に旅

行かばんを持って辻つじ馬車に乗り、パディントン駅に向かうことができた。シャーロッ

ク・ホームズは駅のホームをいったりきたりしていた。長い灰色の外がい套とうを着て、

頭にぴったり合う布製の帽子をかぶっているせいで、背の高いやせた体がいっそう細長く

見える。

「きてくれてうれしいよ、ワトスン。信頼できる人間がそばにいるのといないのとじゃ大

ちがいだからね。地元の警察の協力者なんて、たいてい役に立たないか、偏見を持った連

中ばかりだからな。そこのすみの席を二つ取っておいてくれ。ぼくは切符を買ってくる」

 ぼくたちの客室にはだれも乗ってこなかった。そこへホームズが大量の新聞を持ちこん

で、あたりに散らかした。ホームズはそれを引っかきまわして読んでは、ときどきメモを

取ったり考えこんだりしていたが、やがてレディングに着くと、急にそれをぜんぶまとめ

てくしゃくしゃにまるめ、大きな紙玉にして荷物棚の上に置いた。

「この事件について、なにか聞いたことはあるかい?」ホームズはたずねた。

「いや、なにも。ここ数日、新聞を見ていなかったから」

「ロンドンの新聞はあまり詳しい記事をのせていない。だから、最近の地方紙をぜんぶ読

んで、詳しい情報を集めていたんだ。その結果から判断すると、どうやらこれは、単純で

ありながら非常に難しい事件の類たぐいらしい」

「単純で難しいとはちょっと矛盾してるね」

「だが、そのとおりなんだからしかたがない。事件の異常さというのは、それ自体が手が

かりになることが多いんだ。特徴のない平凡な犯罪のほうが解決するのは難しい。しかし

この事件では、殺された男の息子が、非常に不利な状況に置かれているらしい」

「というと、殺人事件なのかい?」

「殺人事件だとされている。ぼくとしては直接調べてみないとはっきり断定できないが

ね。これから事件の状況を、ぼくの知り得た範囲で簡単に説明しよう。

 ボスコム谷はヘレフォード州のロスからほど近い田舎にある。その地方のいちばんの地

主は、ジョン・ターナーという男だ。彼はオーストラリアで財をなし、数年前に故郷にも

どってきた。ターナーの所有する農場のひとつがハザリー農場で、チャールズ・マッカー

シーという男が借りていた。マッカーシーもオーストラリア帰りの人間で、ターナーとは

向こうにいるときから知り合いだった。この二人が国に帰ってきたときに、互いにできる

だけ近い場所に落ち着こうとしたのも不自然ではない。ターナーのほうがあきらかに金持

ちで、マッカーシーは彼から農場を借りていたが、二人はしょっちゅう行動をともにして

いたし、まったく対等の関係でつきあいを続けていたらしい。マッカーシーには十八歳に

なる息子がいて、ターナーには同じ歳の娘がいた。そして二人とも、妻には先立たれてい

た。どちらも近所づきあいは避けて、引きこもった生活をしていたが、マッカーシー親子

はスポーツが好きで、近くで開かれる競馬大会には頻繁に出かけていたらしい。マッカー

シーの家では使用人を二人置いていた。馬丁がひとりと若いメイドがひとりだ。ターナー

の家では使用人も多く、少なくとも六人はいた。二人の家庭についての情報はいまのとこ

ろこれくらいだ。つぎに事件について説明しよう。

 六月三日、つまりこの前の月曜日だが、マッカーシーはハザリー農場の家を午後三時ご

ろ出て、ボスコム池まで歩いていった。その池はボスコム谷を流れる川が広がってできた

小さな池だ。マッカーシーはその日の午前中、馬丁を連れてロスの町にいっていたが、三

時に大事な約束があるので、急がないといけないと馬丁にいったそうだ。その約束から

マッカーシーは生きて帰ることができなかったわけだ。

 ハザリー農場の家からボスコム池までは四分の一マイルほどで、マッカーシーがボスコ

ム池へ向かう道を歩いているのを二人の人間が見ている。ひとりは年配の女性だが、名前

は新聞に出ていなかった。もうひとりはウィリアム・クラウダーという猟番で、ターナー

に雇われている。この二人の目撃者は、マッカーシーがひとりで歩いていたと証言してい

る。猟番はさらに、マッカーシーを見た数分後、マッカーシーの息子のジェイムズ・マッ

カーシーが銃をわきに抱えて同じ方向へ向かっていたと証言している。この猟番がいうに

は、父親の姿はそのときまだ見えていて、息子があとを追っていたということらしい。猟

番はその後、夜になって事件のことを聞くまでそのことをすっかり忘れていたという。

 マッカーシー親子の姿は猟番のウィリアム・クラウダーが二人の姿を見かけたあとにも

目撃されている。ボスコム池はまわりをうっそうとした森に囲まれ、池の縁にちょっとし

た草やアシが生えているだけだ。ペイシェンス・モランという十四歳の少女は、ボスコム

谷地所の管理人小屋の娘で、池のほとりの森で花をつんでいた。その少女によると、彼女

が森にいたとき、森のはずれの池に近いところにマッカーシーとその息子がいて、激しく

言い争いをしていたようだったという。父親のほうが息子に対して非常にきつい言葉を投

げかけると、息子は手をあげて父親に殴りかかろうとしていた。少女はそれでこわくなっ

て、その場を逃げ出し、家に帰ってから母親にマッカーシー親子がボスコム池の近くでけ

んかをしていて、いまにも取っ組み合いをはじめそうだったと話した。少女がそれを話し

終えてすぐ、マッカーシーの息子のほうが管理人小屋に駆けこんできて、父親が森のなか

で死んでいる、助けてほしいと頼んだ。息子はひどく興奮していて、帽子もかぶらず、銃

も持っていなかった。そして右手の袖そでは生々しい血で汚れていた。管理人たちが息子

についていくと、マッカーシーの死体が池のほとりの草の上に横たわっていた。重い鈍器

で何度も殴られたように、頭がたたきつぶされている。その傷はいかにも息子の銃の台だ

い尻じりで殴られてできたように見えた。死体から数歩離れた草の上に、その銃が転がっ

ていたからだ。こういう状況だったので、マッカーシーの息子のジェイムズはすぐに逮捕

され、水曜日にロスの治安判事の取り調べを受けた。その結果、事件は巡回裁判( 注・主とし

て高等法院裁判官によって定期的にひらかれた民事・刑事裁判 )に付されることになった。以上が検視官や

警察裁判所によってあきらかにされたこの事件のおもだった事実だ」

「これ以上犯人がはっきりしている事件はないんじゃないか」ぼくは感想を述べた。「犯

人を指し示す状況証拠というものがあるとしたら、まさにこれがそうだ」


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09/30 05:36