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ボスコム谷の惨劇(6)
日期:2024-01-29 14:38  点击:284

 シャーロック・ホームズはこういう調査に熱中すると、人が変わってしまう。ベイカー

街の物静かな思索家や理論家としてのホームズしか知らない者は、これが彼だとはわから

ないだろう。顔は紅潮してけわしい表情となる。黒くくっきりした眉まゆの下で輝く瞳ひ

とみは鋼のように冷ややかだ。うつむきかげんに背中を丸めて、唇をぎゅっと結び、長く

ひきしまった首にむち縄のような青筋がたっている。獲物を求める純粋な動物的欲求から

鼻孔は広がり、目の前の事物に完全に神経を集中させてしまうので、はたからなにかたず

ねたり意見を述べたりしても、無視されるか、いらいらした早口でどなり返されるだけ

だ。牧草地を通り抜ける小道を素早く黙々と進むと、森を抜けてボスコム池に着いた。あ

たりはこの辺一帯と同じくじめじめした湿地で、道の上にも、その両側の草地にも、たく

さんの足跡がついていた。ホームズは速足で先を急ぐかと思えば、急に立ちどまったり、

草地のなかへ大きく寄り道をしたりした。レストレイドとぼくはそのうしろをついていっ

た。レストレイドはホームズのようすをこばかにして、つまらなそうに見ていたが、ぼく

は興味津々だった。ホームズの行動のひとつひとつが明確な目的を持っていると信じてい

たからだ。

 ボスコム池はアシに囲まれた直径五十ヤードほどの池で、ハザリー農場と地主のター

ナー氏の屋敷の地所の境にある。池をはさんだ向こう側の森の上に、赤い尖せん塔とうが

数本突き出ていて、裕福な地主の住まいがそこにあることを示していた。ハザリー農場の

側の岸辺は深い森になっているが、池を縁取るアシと森のあいだに、じめじめした草地

が、ほんの二十歩ほどの幅で広がっている。レストレイドはぼくとホームズに、死体が見

つかった正確な場所を教えてくれた。地面が湿っているおかげで、被害者が倒れたときに

ついた跡が、ぼくにもはっきりわかった。その熱心な顔つきと射るようなまなざしからし

て、ホームズはぼくにはわからないような多くのことを、この踏み荒らされた草地から読

み取ったのだろう。においを嗅かぎつけた犬のようにあたりを駆けまわり、やがてレスト

レイドのほうを振り返った。

「なんのために池に入った?」ホームズはたずねた。

「熊手で底を探ってみたんだ。凶器かなにか見つかるかもしれんと思って。だがどうして

──」

「チッ! チッ! 時間がないんですよ。左側が内反足になった警部の足跡がそこらじゅ

うについているじゃないですか。モグラでもわかる。その足跡がアシのあいだに消えてい

る。ああ、ぼくがもっと早くにきていたら、もっと簡単だったのに。みんなしてバッファ

ローの群れみたいにあたりを歩きまわってくれたな。これは管理人小屋の一行が歩いた跡

だ。死体のまわり六フィートから八フィートにわたって彼らの足跡だらけだ。だが、ここ

に三つ、別の足跡があるぞ。三つとも人間の足跡だ」ホームズは拡大鏡を取り出すと、近

くでよく見るために、レインコートを敷いて、その上に腹ばいになった。そして、ぼくた

ちに話しかけるというより、自分自身に言い聞かせるようにしゃべりつづけた。「これは

ジェイムズの足跡だ。二回は歩いて、もう一回は大急ぎで走っている。深い足跡がついて

いるのに、かかとのほうはほとんどついていないからな。これはジェイムズの話と一致す

る。父親が地面に倒れているのを見て走ったといっていたからな。それからこれが父親の

歩きまわった跡だ。そしてこれはなんだ? 銃の台だい尻じりの跡か。ジェイムズが父親

の話を立って聞いていたときのものだろう。それからこれは? ふーん、なんだろう?

つま先で忍びよっているぞ。角張った変わった形の靴だ。近づいて、遠ざかって、また近

づいている──もちろん、マントを取りにきたんだろう。こいつはどこからきてる?」ホー

ムズはあちこち駆けまわって、足跡を見つけたり見失ったりしながら、とうとう森のなか

に入りこみ、あたりでいちばん大きいブナの木の陰にたどり着いた。木の向こう側にまわ

りこんで、もう一度うつぶせに寝転ぶと、小さく満足げな声をあげた。長いあいだそのま

まの姿勢で、落ち葉や枯れ枝をひっくり返したり、ぼくには小さなごみとしか見えないよ

うなものを拾って封筒のなかに入れたり、拡大鏡で地面やブナの木の表面を、背の届くと

ころまで調べたりしていた。ぎざぎざの石がひとつ、苔のあいだに転がっていて、ホーム

ズはそれもじっくり調べてから大事にしまった。それから森のなかの小道をたどって街道

に出たが、そこですべての足跡は消えていた。

「これはなかなかおもしろい事件だよ」ホームズはいった。もうふだんの彼にもどってい

る。「右手にあるあの灰色の家が管理人小屋だと思うが、これからそこにいって、管理人

のモランと少し話をして、たぶん短い手紙を書くことになると思う。そのあと馬車でも

どって食事にしよう。二人とも馬車のほうへいってくれてていいよ。ぼくもすぐいくか

ら」

 およそ十分後、ぼくたちはふたたび馬車に乗って、ロスにもどった。ホームズはまだあ

の森のなかで拾った石を持っていた。

「レストレイド警部、これはなかなかおもしろいものですよ」ホームズは石を差し出して

いった。「これが凶器です」

「だが、なんの跡もないぞ」

「もちろん」

「では、どうしてわかるのかね?」

「その石の下に草がはえていました。ここ数日のあいだに置かれたばかりなんですよ。ど

こから取ってきたものかもわからない。傷口と一致する。ほかに凶器が見あたらない」

「で、犯人は?」

「背は高く、左利きで、右足をひきずって歩き、底の厚い狩猟用の靴をはいて、灰色のマ

ントを着てインド産の葉巻を吸い、葉巻のパイプを使って、ポケットになまくらなペンナ

イフを持った男です。ほかにもいくつか特徴がありますが、捜査にはこれだけあれば充分

でしょう」

 レストレイドは笑った。「どうもまだよくわからんね。理屈もけっこうだが、われわれ

は現実を重視するイギリスの陪審員を相手にせにゃならんのだよ」

「いまにわかりますよ」ホームズはおだやかにいった。「警部はご自分のやり方でなさっ

てください。ぼくはぼくでやる。今日の午後は忙しくなるぞ。それと、夕方の列車でロン

ドンに帰りますから」

「事件をほったらかしにして?」

「いえ、片づけてからです」

「だが、謎が残っている」

「もう解けました」

「じゃあ、だれが犯人なんだ?」

「いま特徴を申し上げた人物です」

「しかし、だれなんだ?」

「それを見つけるのは難しくないはずです。ここらはそう人口も多くない」

 レストレイドは肩をすくめた。「わたしは現実的な男でね。左利きで足の不自由な人物

を探してそこらをうろうろするような仕事は引き受けられん。それこそスコットランド・

ヤードの笑い者になってしまう」

「わかりました」ホームズは静かにいった。「でもぼくはたしかに警部にチャンスをあげ

ましたからね。さあ、もう宿に着きました。さようなら。ロンドンに発つ前に手紙を出し

ますから」

 レストレイドをそこでおろして、ぼくとホームズは自分たちのホテルへ向かった。ホテ

ルでは昼食が用意されていた。ホームズは黙ったまま物思いにふけっていたが、その表情

はつらそうで、なにか困った立場に立たされた人間のように見えた。


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09/30 05:36