「いいかい、ワトスン」昼食の片づけがすんだあと、ホームズがいった。「この椅子にす
わって、しばらくのあいだ、ぼくの話を聞いてほしいんだ。どうしていいかわからなくて
ね。きみのアドバイスがほしい。葉巻をやりながら聞いてくれ」
「いいとも」
「さて、この事件を考えるにあたって、ジェイムズ・マッカーシーの話のなかに、ぼくた
ちの注意をすぐさま引いた点が二つあった。といっても、ぼくにはそれがジェイムズに
とって有利な点に思え、きみは不利な点ととらえた。そのうちひとつは、ジェイムズの供
述によると、父親がジェイムズの姿を見る前に〝クーイー!〟と叫んだことだ。もうひと
つは父親が死に際にいったネズミという奇妙な言葉だ。父親はそのほかにもなにかつぶや
いていただろうが、ジェイムズが聞き取れたのは、それだけだった。その二つの点からぼ
くたちは探求を始めていかねばならないのだが、その際に、ジェイムズのいったことは完
全に真実だという前提に立つことにしよう」
「では、あの〝クーイー!〟という叫びはいったいどういうことになるんだい?」
「もちろん息子に向かって発せられたものではない。息子は父親の頭のなかではまだブリ
ストルにいるはずなのだ。その叫びが聞こえるところに息子がいたのは、まったくの偶然
だった。〝クーイー!〟という叫び声は父親が会う約束をしていた相手の注意を引くため
のものだった。しかし〝クーイー!〟というのはあきらかにオーストラリアの言葉で、古
くから呼びかけとして使われているものだ。したがってマッカーシーがボスコム池で会う
ことになっていた相手は、オーストラリアにいたことのある人物だと強く推定できる」
「ではネズミのほうは?」
シャーロック・ホームズはポケットから折りたたんだ紙を取り出して、テーブルの上に
広げた。「これはオーストラリアのヴィクトリア州の地図だ。ゆうべブリストルに電報を
打って取り寄せた」ホームズは片手を地図の上にのせた。「これはなんと読む?」
「ARATアラツト(一匹のネズミ)」
「これでは?」ホームズは地図の上に置いた手をあげた。
「BALLARATバララツト」
「そのとおり。これが父親のいった言葉で、息子はその言葉のうしろ半分しか聞き取れな
かったんだ。父親は殺人者の名前を告げようとしていた。バララットのだれそれ、と」
「すごい!」
「簡単なことだよ。さあ、これでかなり絞れてきただろう。犯人が灰色の衣服を持ってい
たことは、ジェイムズの供述が正しいとすると、三つ目にたしかな点だ。ぼくたちは雲を
つかむような状況から、灰色のマントを持つ、バララットからきたオーストラリア帰りの
人間というはっきりした犯人像に到達した」
「そうだね」
「さらに犯人はこの近辺の地理に詳しい人物だ。ボスコム池にはハザリー農場かターナー
氏の地所を通っていくしかないからね。よそ者がうろつくような場所じゃない」
「そのとおりだ」
「そこで今日の現場調査の出番だ。地面を調べた結果、ぼくは犯人の細かい特徴をいくつ
かとらえた。それについては、まぬけなレストレイド警部にも教えてやったがね」
「だが、どうやってあんな特徴がわかったんだい?」
「きみはぼくの方法を知っているだろう。どれも細かい観察に基づいているんだよ」
「背丈については歩幅から推測したんだろうなと思う。靴についても足跡からわかるだろ
う」
「そうだ。変わった形の靴だった」
「だが、足が悪いというのは?」
「右の足跡がどれも左の足跡よりはっきりしていなかった。右足にあまり体重をかけてい
ないからだ。なぜか? 足を引きずって歩いている。つまり足が不自由だからだ」
「では、左利きだというのは?」
「検視審問で外科医の診断書に書かれていた傷口の状態から、きみも気づいていただろ
う。被害者はすぐうしろから殴打されているが、傷口は左側にある。左利きではない人間
にそんなことができるだろうか? 犯人は父親と息子がけんかしているあいだ、木のうし
ろに隠れていた。タバコまでやっていたんだ。ぼくはあそこで葉巻の灰を見つけたから
ね。葉巻の灰に関するぼくの専門知識に照らしてみると、あれはインド産の葉巻だと断言
できる。ぼくはきみも知ってのとおり、葉巻の灰にはちょっと興味があって、百四十種類
のパイプタバコ、葉巻タバコ、紙巻きタバコの灰について、小論文を書いたことがあるん
だ。灰を見つけたあと、あたりを探してみると、吸いさしも見つかった。犯人が捨てたも
のだ。じっさい、インド産の葉巻で、ロッテルダムで巻かれたものだった」
「それじゃ葉巻用のパイプを使っているというのは?」
「吸いさしの端にくわえた跡がなかったからだよ。つまり、パイプを使っているというこ
とだ。葉巻の端は嚙かみ切ったのではなく、刃物でカットされていたが、切り口がきれい
じゃない。だから、切れ味の悪いペンナイフを持っていたのだろうと推理したわけだ」
「ホームズ、きみはもう、犯人が逃げられないように網を張りめぐらしたようだね。そし
て無実の人間の命を救ったわけだ。まさしく、首にかかっていた縄を断ち切ってやったよ
うなもんだ。すべての事実が指し示す方向が、ぼくにも見えてきたよ。犯人は──」
「ジョン・ターナーさんがお越しです」ホテルのウェイターがぼくたちの部屋の扉をあ
け、ひとりの客をなかに通した。
入ってきたのは一風変わった印象的な風ふう貌ぼうの男性だった。ゆっくりと足をひき
ずり、背中を丸めたようすは、いかにも老いぼれた印象を与えるが、深いしわが刻まれた
いかつい顔は、大きな手足とともに、並はずれた体力と精神力の持ち主であることを示し
ている。もじゃもじゃのあごひげと白髪まじりの髪の毛に、人一倍濃く垂れ下がった眉ま
ゆ毛げが一体となって、威厳に満ちた力強い雰囲気をかもしだしていた。しかし、顔には
血の気がなく、唇や鼻孔のすみが青黒く変色している。慢性の重病に冒されていること
が、ぼくにはひと目でわかった。
「どうぞ、ソファにおかけください」ホームズがおだやかにいった。「わたしの手紙を受
け取られたのですね?」
「そうです。管理人小屋の者が届けてくれました。騒ぎが起こらないよう、ここで会いた
いとのことでしたな」
「わたしがお宅にうかがうと、噂がたつと思いましたので」
「それで、どうしてわしにお会いになりたかったのですか?」ターナー氏は疲れた目に絶
望の色を浮かべてホームズを見た。まるでもう答がわかっているような表情だ。
「そうです」ホームズはターナー氏の言葉ではなく、その表情に答えた。「お察しのとお
り、わたしはマッカーシーのことについてぜんぶ知っています」
老人は両手に顔を埋めた。「おお神よ! だが、わしはあの若者をつらい目にあわせる
つもりはなかった。誓ってもいい。もし巡回裁判でジェイムズが有罪になるようなことが
あれば、なにもかも白状するつもりだった」
「それを聞いてほっとしました」ホームズが深刻な表情でいった。
「最愛の娘がいなければ、もっと早く自首していたのだが。娘が傷つきはせんかと──わし
が逮捕されたと知ると、娘は悲しむでしょう」
「そうはならないと思いますよ」ホームズがいった。
「なんですって!」