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唇のねじれた男(1)
日期:2024-01-29 15:16  点击:239

唇のねじれた男

 アイザ・ホイットニーは、セント・ジョージ神学校の校長だった故エリアス・ホイット

ニー神学博士の弟だが、阿あ片へんに深く耽たん溺できしていた。ぼくの知るかぎりで

は、その悪癖は分別のない学生時代の好奇心から始まったという。阿片による夢と陶酔を

描いたド・クィンシー( 注・英国の随筆家、批評家。一七八五~一八五九 )の作品を読み、同じような

経験がしたくなって、タバコを阿片チンキにひたしてみたのだ。阿片中毒者の例にもれ

ず、その悪癖に染まるのはいとも簡単だったが、それを断つのは至難の業だった。もう長

年阿片のとりこになって、友人や親類から、恐れられたり、同情されたりしてきた。いま

の彼は土気色で生気のない顔や、たるんだまぶた、針先のように縮んだ瞳どう孔こう、う

ずくまるようにしてすわる姿からして、もはや生ける屍しかばね、貴族のくずとしかいい

ようがなかった。

 ある夜──一八八九年の六月だったが──わが家の玄関の呼鈴が鳴った。そろそろ最初の

あくびが出て、時計をちらりと見るような時間のことだ。ぼくは椅子の上で体を起こし、

妻は針仕事をひざの上に置いて、ちょっとがっかりした顔になった。

「患者さんだわ! また出かけないといけないわね」

 ぼくはうめいた。ついさっき、一日の重労働から解放されたばかりだったのだ。

 扉があく音がして、二言三言、あわてて言葉を交わす声が聞こえ、リノリウムの床を急

ぐ足音が近づいてきた。ぼくたちのいる部屋の扉がさっと開き、黒っぽい服を着て、

ヴェールをかぶった女性が入ってきた。

「こんなに遅くごめんなさい」女性はそういったかと思うと、とつぜん取り乱し、妻に走

りよった。両手を妻の首にまわし、肩に顔を埋めてすすり泣きを始める。「ああ、わた

し、ほんとうに困っているの! どうか助けてちょうだい!」

「あらまあ」妻は女性のヴェールをあげていった。「ケイト・ホイットニーじゃないの。

びっくりしたわ。入ってきたときは、ぜんぜんだれかわからなかったもの」

「どうしていいかわからなくて。それでまっすぐあなたのところにきたの」それはいつも

のことだった。人々は悲しみに暮れたとき、ぼくの妻のもとへやってくる。まるで鳥が灯

台に集まるように。

「それはよくきたわね。さあ、ワインの水割りを少し飲んだらいいわ。ここに腰かけて、

気を楽にして。それからなにもかも話してちょうだい。それともうちの人には先に休んで

もらったほうがいいかしら?」

「いいえ、先生のアドバイスやお力もお借りしたいんです。じつはアイザのことで。もう

二日も家に帰ってこなくて、心配でたまらないんです!」

 ケイト・ホイットニーが夫のことをぼくたちに相談にきたのは、これが初めてではな

かった。ぼくは医者として、妻は学生時代の友人として、相談に乗ってきた。ぼくも妻

も、精いっぱい言葉を尽くして、彼女をなだめたりなぐさめたりした。ご主人の行先はわ

かっているの? ぼくたちで連れもどすことはできそうなのかい?

 その問いに対する答はどうやらイエスだった。ケイトは最近、夫が禁断症状を起こす

と、シティの東の端にある阿あ片へん窟くつへ出かけるというたしかな情報をつかんでい

た。しかし、いままではそうやって阿片に溺おぼれることも一日だけですんでいて、夕方

には体をぴくぴく痙けい攣れんさせ、ぐったりして帰ってきたという。それが今回は四十

八時間も続き、おそらく、波止場の常習者たちのあいだで寝転がって毒煙を吸いつづけて

いるか、それとも薬の効果が切れるまで眠りこけているにちがいないというのだ。夫がい

る場所はアッパー・スワンダム小路の『金の延べ棒』と呼ばれる家だということははっき

りしている。だがケイトはどうすればいいのか? 彼女のようにうら若く気の弱い女性

が、そんな場所に踏みこんでいって、ごろつきが大勢寝転んでいるなかから夫を連れもど

すことなどできるだろうか?

 そういう事情なので、もちろん解決の方法はひとつしかない。ぼくがケイトに付き添っ

てそこへいけばいいのだ。だが待てよ。ケイトはそもそもいく必要があるだろうか? ぼ

くはアイザ・ホイットニーの主治医だから、彼もぼくのいうことなら聞いてくれるはず

だ。ぼくがひとりでいったほうがうまくいくような気がする。そこでぼくはケイトにいっ

た。いま教えてもらった場所にほんとうにアイザがいたら、二時間以内に馬車に乗せて、

かならず連れ帰る、と。こうしてぼくは十分後には、肘ひじ掛かけ椅い子すと心地よい居

間をあとにして、辻つじ馬車をせきたて、一路東へ向かっていた。そのときには、変わっ

た用件を引き受けてしまったな、と思っていただけだったが、それがいかに奇妙な展開に

つながったか、あとになって知ることになる。

 しかしはじめの段階では、たいして難しいこともなかった。アッパー・スワンダム小路

はロンドン橋の東、テムズ河の北岸に沿った高い埠頭の裏手に位置する汚い横丁だ。安物

の既製服を売る店と居酒屋のあいだを抜ける急な石段をおりると、洞どう窟くつが口をあ

けたような暗い空間があって、そこに目指す阿片窟がある。辻馬車に待つようにいって、

ぼくは石段をおりていった。ふらふらになった客が絶え間なく踏みつけたおかげで、石段

は中央がへこんでいる。ちらちら揺らめく石油ランプの光の下に扉があった。掛け金をは

ずしてなかに入ると、天井の低い部屋があって、阿片の茶色い煙がもうもうと立ちこめて

いる。移民船の船倉のように木の寝台がずらりと並んでいた。

 薄暗がりのなか、異様な姿勢で横たわっている人影が、ぼんやりと見える。背中を丸

め、ひざを折って、頭を反らしてあごを突き出し、あちこちから暗くどんよりした目で闖

ちん入にゆう者をながめている。暗い人影のあいだで、小さな赤い火が丸くともり、明る

くなったり暗くなったりを繰り返している。金属製のパイプの火皿のなかで、阿片の燃え

る勢いが強まったり弱まったりしているのだ。たいていの者は黙って寝転んでいるが、な

かにはぶつぶつとひとり言をいう者や、低く単調な奇妙な声でほかの者としゃべっている

者もいる。威勢よく話しだしたかと思うととつぜん黙りこんだりして、お互いに自分のい

いたいことをいうだけで、相手のいうことはまったく聞いていなかった。部屋の奥に炭火

が燃える小さな火鉢があり、そのかたわらに三本脚の木の椅子があって、背の高いやせた

老人がすわっていた。肘ひじをひざにのせて、あごを両手のこぶしで支え、じっと火を見

つめている。

 ぼくが入っていくと、土気色の顔のマレー人の給仕が、パイプと一回分の阿片を持って

駆けよってきて、空いているベッドに案内しようとした。

「いや、ぼくは阿片をやりにきたんじゃない。ここに友人がいるんだ。アイザ・ホイット

ニーという。彼と話がしたい」

 ぼくの右手で人が動く気配と叫び声がした。暗闇に目を凝らしてみると、ホイットニー

がいた。髪を振り乱し、青白いやつれた顔でぼくをじっと見つめている。

「なんだ、ワトスンじゃないか!」ホイットニーは麻薬から覚めた反動で体中をぶるぶる

震わせ、みじめな状態だった。「ねえ、ワトスン、いま何時だい?」

「もうすぐ十一時だよ」

「何曜日の?」

「六月十九日、金曜日だ」

「ああ、なんてことだ! まだ水曜日だと思っていた。水曜日なんだろう? なんでそん

なこといって脅かすんだ?」ホイットニーは両腕に顔を埋めて甲高い声で泣きはじめた。


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09/30 03:30