「今日は金曜日だよ。奥さんは二日間、ずっと心配して待ちつづけていたんだ。恥ずかし
いと思わないのか」
「そりゃ、恥ずかしいよ。けど、ワトスン、きみはまちがってるんじゃないかい? ぼく
は数時間前にここへきたばっかりで、三服やって、四服やったかな──ちょっと忘れた。だ
が、きみといっしょに帰るよ。ケイトを心配させたくない──かわいそうなケイト。ちょっ
と手を貸してくれ! 馬車はあるかい?」
「ああ、一台待たせてある」
「じゃあ、それに乗っていこう。だが勘定を払わなければ。いくらになるか、きいてきて
くれないか、ワトスン。気分が悪くてなにもできない」
ぼくは寝台のあいだの狭い通路を通り、頭がくらくらする不快な煙を吸わないよう息を
とめながら支配人を探した。火鉢のそばにすわっている背の高い老人の横を通りすぎよう
としたとき、ふいに服のすそをぐっと引っぱられ、小さな声が聞こえた。「ここを通りす
ぎてすぐ振り返ってごらん」その言葉ははっきりとぼくの耳に届いた。それはかたわらに
いる老人から届いたはずだったが、ちらっと見下ろすと、老人はあいかわらず陶酔の境地
をさまよっている。やせこけて、しわだらけで、腰が曲がり、阿片のパイプがひざのあい
だからだらんとぶらさがっているのは、指の力が抜けて落っこちたようだった。ぼくは二
歩進んでから振り返った。その瞬間、びっくりして大声をあげそうになるのを、必死でこ
らえねばならなかった。老人はぼくにだけ顔が見えるように、こちらを振り向いていた。
その顔は肉づきがよくなり、しわは消えて、どんよりとした目は輝きを取りもどしてい
た。火のそばにすわり、驚くぼくを見てにんまりしている。それはほかでもない、シャー
ロック・ホームズその人だった。ホームズはかすかな身ぶりで近寄れと合図すると、すぐ
もとの向きにもどって、よぼよぼのぼんやりした老人になった。
「ホームズ!」ぼくは声を殺していった。「いったいここでなにをしているんだ?」
「できるだけ小声で頼む」ホームズは答えた。「ぼくは耳がいい。すまないが、きみのあ
の呆ぼけた友だちをどこかへやってくれないかな。ぜひきみに相談したいことがあるん
だ」
「外に馬車を待たせてある」
「じゃあ、友だちをそれに乗せて、ひとりで帰らせてくれ。彼なら大丈夫だ。あんなにふ
らふらじゃ、途中で悪さもできないよ。ついでにきみの奥さん宛てに、ホームズと行動を
共にすると手紙を書いて、御者に届けさせるんだ。外で待っててくれたら、五分で合流す
る」
シャーロック・ホームズの頼みを断るのは難しい。いつも、きわめて明快に、命令する
ような態度で頼んでくるからだ。しかし、ホイットニーを馬車に閉じこめてしまえば、用
件はほとんど果たしたようなものだ。ぼくとしても、ホームズと行動をともにすることほ
どうれしいことはない。ホームズといっしょにいれば、彼にとっては日常茶飯事の風変わ
りな冒険に参加することができるのだから。数分のうちにぼくは手紙を書いて、ホイット
ニーの勘定を払い、彼を馬車まで連れていって、暗闇のなか馬車が走り去るのを見送っ
た。そのあとすぐよぼよぼの老人が阿片窟から姿を現し、ぼくと並んで通りを歩きはじめ
た。通りを二つ通りすぎるまで彼は背中を曲げて足をひきずり、よろよろと歩いた。その
あとさっとあたりを見渡すと、腰をしゃんとのばし、おかしくてたまらないというように
笑い出した。
「ワトスン、きみはきっと、ぼくがコカイン注射に加えて阿あ片へんまでやりはじめたの
かと思ったことだろう。きみが医学的見地から忠告してきた悪癖をぜんぶ試すつもりなの
かと心配しただろうね」
「たしかにホームズがあんなところにいてびっくりしたよ」
「だが、こっちこそきみに会ってびっくりしているんだ」
「ぼくは友人を探しにいったんだよ」
「ぼくは敵を探しにいった」
「敵?」
「うん。ぼくの宿敵のひとりだ。いや、定められた獲物といったほうがいいかな。つま
り、ぼくはいま、非常に驚くべき事件の調査の最中なんだよ。その手がかりを求めて、あ
の阿片中毒どもの支離滅裂な会話を聞きにいったってわけさ。前にもやったことがある
が、もしあそこで正体がばれていたら、ぼくの命は一時間と持たなかっただろう。じつは
この前、あそこへ調査にいったときにばれて、水夫あがりのごろつきのインド人経営者
が、こんど見かけたらただではおかんと息巻いていたからね。あの建物の裏のポール埠ふ
頭とう寄りに、秘密の戸口があって、新月の夜にそこから運び出されるものについて、お
もしろい話があるんだ」
「なんだって! まさか死体じゃないだろうな」
「そのまさかだよ、ワトスン。もしあの阿あ片へん窟くつで人がひとり死ぬたびに千ポン
ド手に入るとしたら、たいへんな金持ちになれる。あそこはテムズ河畔でも最も忌まわし
い殺人スポットなんだ。だからぼくは、ネヴィル・セントクレアもあそこへ入ったきり、
二度ともどってこないのではないかと心配しているんだ。ところで、このへんに馬車がい
るはずなんだが」ホームズは両手の人差指を口に突っこんで、甲高い口笛を吹いた。する
とそれに答えて、遠くから同じような口笛が聞こえ、すぐに車輪と蹄ひづめの音が近づい
てきた。「さあ、ワトスン」背の高い一頭立ての二輪馬車が、暗闇のなかから現れた。側
灯が二筋の金色の光を放っている。「いっしょにいってくれるね?」
「ぼくで役に立つなら」
「信頼できる仲間はいつだって役に立つさ。そのうえ記録係なら申し分ない。杉屋敷のぼ
くの部屋にはベッドが二つあるしね」
「杉屋敷?」
「そう。セントクレア氏の屋敷だ。調査のあいだ、ぼくはそこに滞在している」
「それはどこにあるんだい?」
「ケント州のリーの近くだ。ここから七マイルある」
「だけど、ぼくにはなにがなんだか、さっぱりわからないよ」
「それはそうだろう。だが、もうすぐわかる。さあ、乗って! ありがとう、ジョン、あ
とはぼくがやる。お礼の半クラウンだ。明日あしたの十一時ごろにまた頼む。手綱を放し
てくれ。ご苦労さん!」
ホームズが馬に軽くむちをあてると馬車は勢いよく走り出し、果てしなく続く人気のな
い薄暗い通りを進んだ。通りはだんだん広くなり、やがて欄干のついた大きな橋に出た。
暗い川がゆったりと下を流れている。川の向こうには、レンガとモルタルでできた雑然と
した街並みが広がっている。その夜の静けさを破るのは、規則正しく力強く響く夜警の巡
査の足音と、遅くまで飲み歩く酔っぱらいの歌声やわめき声だけだ。くすんだ色のちぎれ
雲がゆっくりと空を横切り、そこここにある雲の切れ間から、星がひとつふたつ、薄暗い
光を放っていた。ホームズはいかにも考えこんだようすで、うつむきかげんのまま黙って
手綱を引いていた。ぼくはホームズのかたわらにすわりながら、彼がこれほど精力を傾け
ているこんどの事件がいったいどういうものなのか、知りたくてしかたがなかった。だが
いっぽうで、彼の思考の邪魔をするのははばかられた。五、六マイル進んで郊外の別荘地
にさしかかったとき、ホームズは体を震わせて肩をすくめ、パイプに火をつけた。自分は
正しい行動をとっているとようやく納得したような感じだ。