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唇のねじれた男(8)
日期:2024-01-29 15:18  点击:297

 わたしが自分の身の上話をするのは、あなたがたが初めてです。わたしの父はチェス

ターフィールドで教師を務め、わたしもそこでりっぱな教育を受けました。若いころは旅

行をしたり、役者として舞台に立ったりしましたが、そのあとロンドンの夕刊紙の記者に

なりました。ある日、編集長がロンドンの乞食たちに関する連載記事をのせたいといいま

して、わたしは進んでその担当になったのです。それがわたしの数奇な冒険の始まりでし

た。記事を書くための材料を手に入れるには、物もの乞ごいのまねごとをしてみるほかは

ありません。わたしは役者をしていたので、当然、様々なメイクのこつを習得し、楽屋内

でも評判の腕前でした。わたしはその技術を取材に利用したのです。顔にドーランを塗っ

て、できるだけ憐れみを誘うように、大きな傷跡をつくり、唇の一端を小さな肌色の絆ば

ん創そう膏こうを使ってねじりました。赤毛のかつらをかぶり、乞食に見える服装をし

て、シティのいちばんにぎやかな場所に陣取り、表向きはマッチ売りで、実は物乞いにな

りすましたのです。七時間、仕事に精を出し、夜になって家に帰ると、驚いたことに、二

十六シリング四ペンスもあがりがありました。

 わたしは記事を書き、そのことはもうほとんど忘れていたのですが、しばらくして友人

のために手形の裏書をしたため、二十五ポンドの支払令状を受けてしまいました。どう

やって金を工面しようかと途方に暮れていたとき、ふいにあることを思いついたのです。

わたしは債権者に二週間の猶予を願い出て、新聞社からは休暇をとり、シティで変装して

物乞いをしました。十日間で必要な金を稼ぎ、借金を払うことができました。

 もうお察しのことと思いますが、その後、骨が折れるうえに週に二ポンドしか稼げない

仕事にもどるのはとても大変でした。なにしろ顔にちょっとメイクをして、道に帽子を置

いてじっとすわっているだけで一日に同じ額を稼げると知ってしまったのです。誇りを取

るか、金を取るか、長い葛かつ藤とうがありましたが、最後には金が勝ちました。わたし

は記者の仕事をなげうって、毎日、自分の縄張りに通いました。薄気味の悪い顔をつくっ

て憐れみを誘い、ポケットを銅貨でいっぱいにして帰ります。わたしの秘密を知っている

人間がひとりだけいました。スワンダム小路で間借りしていた阿あ片へん窟くつの主人で

す。わたしはあの家から毎朝、乞食の格好をして、むさ苦しい風体で現れ、夕方になる

と、りっぱな身なりの都会の紳士に変身するのです。あのインド人はわたしから高い部屋

代を受け取っているので、秘密をもらす心配はありませんでした。

 またたく間に、お金がどんどん貯たまっていきました。ロンドンの通りにいる乞こ食じ

きがみんな年収七百ポンドあるとはいいません。しかしわたしの平均年収はそれを上回り

ました。それはわたしにメイクの技術や機転のきいた会話術といった特別な強みがあった

せいでしょう。会話術は経験を積むことでますます上達し、そのおかげでわたしはシティ

でちょっとした有名人になりました。毎日、銀貨も交えた小銭の雨が降り注ぎます。一日

に二ポンド稼げない日は、よほど運の悪い日でした。

 お金が貯まるにつれて、わたしはいろいろな野心を持つようになりました。郊外に家を

買って、結婚もしました。わたしのほんとうの職業に疑いを抱く者はひとりもいませんで

した。妻はわたしがシティで仕事をしていることは知っていましたが、なんの仕事をして

いるかは知りませんでした。

 この前の月曜日、わたしは一日の仕事を終え、阿片窟の上の部屋で着替えていました。

そのとき、窓の外をながめると、なんと恐ろしいことに妻が通りに立って、じっとわたし

を見つめているではありませんか。わたしはびっくりして叫び声をあげ、両手で顔を隠し

て、秘密を知っているインド人のところへいき、だれがきてもわたしの部屋にはあげない

でくれと頼みました。下から妻の声が聞こえてきましたが、あがってくることはできない

とわかっていました。わたしはすばやく服を脱ぎ捨て、乞食の服を着て、メイクをしてか

つらをかぶりました。妻の目でも見破ることのできない完かん璧ぺきな変装でした。しか

しそのとき、もしかしたら部屋が捜索されて秘密がばれるかもしれないとふと思ったので

す。そこで急いで窓をあけ、その拍子に朝、寝室でこしらえた切り傷の傷口が開いてしま

いましたが、かまわずコートをつかみました。ポケットに銅貨が入ってずっしり重くなっ

ています。仕事のあがりを入れて持ち歩いている革のかばんから取って詰めたばかりでし

た。そのコートを窓の外に投げると、テムズ河の底へ消えていきました。ほかの衣類も同

じように投げ捨てようと思ったのですが、そのとき警官たちが二階へ駆けあがってきて、

それから数分後、ネヴィル・セントクレアという身元を確認されるかわりに、その人物を

殺した人間として逮捕されたのです。これには正直いって、ほっとしました。

 もうこれ以上は詳しくお話しする必要はないと思います。わたしはできるだけ長く変装

を保とうと思い、そのため顔も汚いままにしておいたのです。妻がひどく心配しているの

はわかってましたので、警官が見ていないときに印章つきの指輪を取って、心配しないよ

うにと走り書きした手紙といっしょにインド人に託しました」

「その手紙はきのうになって、やっと届いたんですよ」ホームズがいった。

「ええっ! ではこの一週間、妻はどんなに心配したことか」

「警察はあのインド人を監視していた」ブラッドストリート警部がいった。「だから、わ

れわれに知られずに出すのが難しかったのだろう。それでたぶん、客の水夫かだれかにこ

とづけたが、そいつが数日間出すのを忘れていたというところかな」

「そうですね」ホームズがうなずいた。「そうにちがいない。しかし物乞いをしていて罰

せられたことはないのですか?」

「何度もあります。でも罰金くらい、なんともありませんよ」

「しかし、もうぜったいやめることだな」ブラッドストリート警部がいった。「警察にこ

んどの件を見逃してほしいというのなら、もう二度とヒュー・ブーンは登場してはなら

ん」

「心の底から堅く誓います」

「そういうことなら、この件についてはこれ以上の処置は取らないことにしよう。しか

し、もしこんどつかまるようなことがあったら、すべては表に出るからな。いやしかし、

ホームズ君には事件の解決のためにすっかりお世話になったな。どうやったらこういう結

論が出せるのか、ぜひ教えてもらいたいもんだよ」

「枕とクッションを五つ集めた上にすわって、刻みタバコを吸いながら出したんですよ。

さあ、ワトスン、ベイカー街まで馬車で飛ばせば、まだ朝食に間に合うだろう」


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09/29 23:31