日语学习网
技師の親指(1)
日期:2024-01-31 23:35  点击:263

技師の親指

 シャーロック・ホームズのもとに解決を求めて持ちこまれた多くの事件のうち、ぼく自

身が持ちこんだものは、ホームズとの長いつきあいのあいだにたった二件しかない。ハザ

リー氏の親指の事件と、ウォーバートン大佐の事件の二つだ。この二つのうちでは、

ウォーバートン大佐の事件のほうが、鋭い洞察力と独創性に富んだ探偵にとっては活躍し

がいのある事件だったかもしれない。しかしハザリー氏の事件も、その発端からして奇々

怪々で、詳細にいたっては、とても劇的な内容であり、記録に留とどめておく価値はむし

ろこちらのほうが大きいように思う。ただし、この事件においては、目覚ましい成功をお

さめてきたホームズの推理法を駆使する余地はあまりなかった。この物語はすでに何回か

新聞で報道されたと思うが、この手の話の場合、一段の半分くらいのスペースに書かれた

おおざっぱな記事では、印象が半減してしまう。本来なら、様々な事実がゆっくりと目の

前で展開し、謎が徐々に解き明かされ、新しい発見がひとつあるたびに、完全な事実に一

歩ずつ近づいていくべきなのだ。当時ぼくはこの事件に深い印象を受けたが、あれから二

年たったいまも、その印象はほとんど薄れていない。

 事件が起こったのは一八八九年の夏、ぼくが結婚してまもないころのことだ。ぼくはふ

たたび開業することになり、ホームズをひとり残してベイカー街の部屋を引き払った。し

かしその後も相変わらず彼のもとを訪れ、ときには自由気ままな生活習慣を改めるよう説

得し、ぼくたち夫婦の家に招いたりもした。ぼくの患者は着実に増えていき、たまたま住

まいがパディントン駅の近くにあったので、駅員の患者も何名かいた。そのうちのひとり

で、苦しい長患いを治してやった車掌は、以後ぼくの腕前を飽きもせず宣伝してくれて、

少しでも自分の意見が通りそうな病人がいると、ぼくを呼ぶように仕向けてくれるのだっ

た。

 ある朝、七時少し前に、ぼくはメイドがドアをノックする音で起こされた。パディント

ン駅から二人の男性がきて、診察室で待っているという。ぼくは急いで着替えをした。と

いうのも、経験から、鉄道関係の患者で軽いのはめったにないとわかっていたからだ。一

階におりると例の車掌が診察室から出てきて、うしろ手でドアを閉めた。

「連れてきましたよ」車掌は小声でいいながら、親指で肩越しにうしろを指した。「大丈

夫だと思いますが」

「いったいなにごとだね?」車掌の態度からは、なにかあやしい者が診察室に閉じこめら

れているような感じがした。

「新しい患者ですよ」また小声でいう。「わたしがここまで連れてきたほうがいいだろう

と思ったもんで。そしたら途中で逃げ出すこともできないから。そこにいますから、たし

かにぶじに連れてきましたよ。じゃあ、先生、わたしはこれで。わたしも先生といっしょ

で仕事がありますんで」そういうと、この頼りになる客引きは、礼をいう暇も与えずに

帰っていった。

 診察室に入ると、ひとりの紳士がテーブルの横に腰かけていた。混色織の地味なスーツ

を着て、ハンチング帽をぼくの本の上に置いている。片手にハンカチを巻きつけていて、

そのハンカチが血でまだらに染まっている。まだ若くて、せいぜい二十五歳くらいにしか

みえないが、精せい悍かんな男らしい顔つきをしている。しかしその顔はひどく青ざめて

いた。なにか強い不安にさらされて、必死でそれを抑えこもうとしているような感じだ。

「朝早くに起こしてしまって申しわけありません、先生。でもゆうべ、たいへんな目に遭

いまして、今朝列車でパディントン駅までやってきて、どこにお医者さんがいるかたずね

たんです。そしたらとても親切な方がいて、ここまで送ってくださった。メイドさんに名

刺をお渡ししたんですけど、そこのサイドテーブルの上に置いていかれたようです」

 ぼくはその名刺を手に取ってながめた。『ヴィクター・ハザリー、水力技師、ヴィクト

リア街一六A(四階)』これが、この朝の客の名前と肩書に住所だ。「お待たせしてすみ

ませんね」ぼくはそういって診察椅子にすわった。「夜行で着いたばかりなんですね。そ

れも退屈だったでしょう」

「いや、ゆうべは退屈なんてもんじゃなかったですよ」そういうと、ハザリー氏は笑いだ

した。腹の底からよく響く声で、体をのけぞらせ、脇腹を震わせて笑うのだ。ぼくは医者

の直感で、これはあぶないと思った。

「笑わないで! 落ち着きなさい!」ぼくはそういってガラスの水差しから水を汲くんで

やった。

 しかしそれも無駄だった。どうやらヒステリーの発作に襲われたらしい。しっかりした

性格の人間が、なにかとてつもない危険にさらされ、危機を脱したあとでよくこういう発

作に襲われる。やがて発作はおさまったが、ハザリー氏はひどくぐったりして、しかもえ

らく恥じ入っているようすだった。

「お恥ずかしいところをお見せしました」息を切らしていう。

「とんでもない。さあ、これを飲みなさい」ぼくは水にブランデーを少し落としてやっ

た。それを飲むと、血の気のない顔にいくらか赤みが差してきた。

「だいぶましになりました! では先生、すみませんがわたしの親指のほうを診ていただ

けますか。というか、もと親指があったところなんですが」

 ハザリー氏はハンカチをほどくと手を差し出した。たいていのことには動じないぼく

も、それを見て思わず身震いした。四本の指が突き出ているが、親指のあるべきところは

毒々しい赤色の海綿のようになっている。付け根からたたき切られたか、ひきちぎられた

かしたようだ。

「これはひどい! たいへんな傷ですね。かなり出血したでしょう」

「はい。やられたときに気を失ってしまって、長いあいだ意識がなかったらしいんです。

気がついたときにまだ血が出ていましたから、ハンカチのいっぽうの端で手首をしっかり

しばり、小枝をはさんで締めつけました」

「すばらしい! 外科医になれますよ」

「水力学の問題ですからね。わたしの専門領域ですよ」

「この傷は」ぼくは傷口を調べながらいった。「なにか重くて鋭利な刃物によるものです

ね」

「肉切り包丁のようなものです」

「事故ですかね?」

「とんでもない」

「えっ、故意に切りつけられたんですか?」

「殺されるところでした」

「なんと恐ろしい」

 ぼくはスポンジで傷口をぬぐって洗い、消毒して薬を塗ってからガーゼをあて、石炭酸

消毒した包帯を巻いた。患者は椅子の背にもたれてじっとしていたが、ときおり唇をかん

で痛みをこらえていた。

「気分はどうです?」


分享到:

顶部
09/29 23:29