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技師の親指(6)
日期:2024-01-31 23:35  点击:264

 今回はさすがにわたしも、その忠告を無視したりしませんでした。よろよろ立ち上がっ

て、女性といっしょに廊下を走り、らせん階段をくだります。その階段は別の広い廊下に

続いていて、わたしたちがその廊下に着いたとき、バタバタと走る足音と、ふたりの男の

どなり声が聞こえてきました。ひとりはわたしたちがいる階で、もうひとりは下の階で、

たがいに声をかけあっています。わたしの先導役は足をとめて、途方に暮れたようすであ

たりを見まわし、ある扉をぱっとあけました。そこは寝室でした。窓の外に月が明るく輝

いています。

『ここから逃げるしかありません』女性はいいました。『高いですが、飛び降りることで

きます』

 女性がそういったとき、廊下の奥から光がさっと差しました。ライサンダー・スターク

大佐のやせた体が、こっちに向かって突進してきます。片手にはランプを、もういっぽう

の手には肉切り包丁のようなものを持っています。わたしはあわてて寝室を横切り、窓を

あけて外を見ました。月の光のなかにたたずむ庭は、あくまでも静かで美しく、気持ちの

よいながめでした。地面まで、せいぜい三十フィートあるかないかです。わたしは窓枠に

よじのぼりましたが、飛び降りるのをためらっていました。命の恩人の女性と、わたしを

追ってくる悪党のあいだで、どんなやりとりが交わされるのか、聞き届けたかったので

す。もし女性の身に危害が加えられるようなことがあれば、危険を冒してでも、助けに向

かうつもりでした。しかし、そんな考えが頭に浮かんだと思った矢先、大佐が戸口に現

れ、女性を押しのけました。女性は両腕で大佐にしがみつき、とめようとしています。

『フリッツ! フリッツ!』そう叫んでから、英語でいいました。『この前、約束したで

しょう。もう二度としないって。この人は黙ってる! なにもしゃべらない!』

『どうかしてしまったのか、エリーゼ!』大佐は叫び、女性を振りほどこうとします。

『お前のおかげでおれたちは破滅だ。この男は知りすぎた。おい、離せ!』大佐は女性を

脇にはねのけ、窓のほうへ走ってくると、重い包丁でわたしに切りつけてきました。わた

しはすでに逃げかけていて、窓の下枠に手をかけてぶらさがっていたのですが、そこへ大

佐の包丁が振りおろされました。わたしは鈍い痛みを感じ、手が枠から離れて、下の庭へ

落ちていきました。

 落ちた衝撃は感じましたが、怪我はしませんでした。立ち上がると、力を振りしぼって

走り、茂みのなかに入りました。まだ危険をまぬがれたわけではないとよくわかっていた

からです。ところが、走っている最中に、とつぜん、ものすごいめまいに襲われました。

手がずきずきして痛かったものですから、ちらっと見ると、そのとき初めて親指が切断さ

れていることに気づいたのです。傷口から血が流れ出していました。なんとかしてハンカ

チを巻こうとしましたが、急に耳の奥でブンブンうなるような音がして、つぎの瞬間には

すっかり気を失って、バラの茂みのなかに倒れこんでいました。

 どれくらいそうしていたのかわかりません。でもきっと長いあいだだったと思います。

気がついたときには、月はもう沈み、明るい朝日がのぼりかけていました。肌は夜露に濡

ぬれ、コートの袖そで口ぐちは傷ついた親指から流れる血でべっとりと汚れています。傷

の痛みを感じると同時に、ゆうべの出来事がひとつひとつ、細かいところまでよみがえり

ました。わたしはぱっと跳ね起きました。まだ大佐たちから逃げきったわけではないと

思ったからです。しかし驚いたことに、あたりを見まわしても、あの家も庭も見あたりま

せん。わたしは大きな通りに面した生垣のすみに寝ていて、少し先には横に長い建物があ

りました。近づいてみると、それは昨夜、列車で到着したアイフォード駅だったのです。

この指の恐ろしい傷さえなければ、あの恐怖の数時間のうちに起こったことは、すべて悪

い夢だったとしか思えなかったでしょう。

 なかばもうろうとしながら、わたしは駅へ向かい、朝の列車の時刻をたずねました。一

時間もしないうちに、レディングへ向かう列車があるといいます。昨夜見かけたポーター

が働いていました。わたしは、ライサンダー・スターク大佐のことをきいたことはあるか

とたずねてみました。しかしポーターは、そんな名前は聞いたことがないといいます。ゆ

うべわたしを待っていた馬車を見たかときいても、見てないと答えました。この近くに警

察署はあるかとたずねると、三マイル先にあるとのことでした。

 こんな弱った身に、三マイルは遠すぎます。警察はロンドンへもどってからいこうと思

いました。もどってきたのは六時過ぎでしたが、まず傷の手当てをしてもらいにいくと、

先生が親切にもここへ連れてきてくださったのです。わたしはこの事件をホームズさんに

おまかせして、おっしゃるとおりにするつもりです」

 ぼくもシャーロック・ホームズも、この異様な話を聞いて、しばらくなにもいわずにす

わっていた。やがてホームズは本棚から一冊の分厚い備忘録を取り出した。新聞の切り抜

きを集めて貼ってあるものだ。

「ここに興味深い広告がありますよ」ホームズはいった。「一年前に新聞各紙に掲載され

たものです。いいですか──たずね人。今月九日に失しつ踪そう。ジェレマイア・ヘイリン

グ、二十六歳、水力技師。夜十時に下宿を出て、以来音信を絶っている。服装は──なるほ

ど。これは大佐が以前に機械を修繕する必要が生じたときのものでしょうね」

「なんということだ!」ぼくの患者は叫んだ。「これであの女性がいった言葉の意味がわ

かった」

「まちがいありません。大佐が冷酷で凶暴な男であることもあきらかですね。自分のけち

な仕事のためには、何者であろうと、ぜったい邪魔は許さない。とらえた船の乗客はひと

り残らず殺してしまう非情な海賊といっしょです。さて、もう一刻の猶予もなりません。

もし元気がおありだったら、スコットランド・ヤードへいって、そのあとアイフォードへ

出かけましょう」

 それから三時間あまりのち、われわれはみんなでレディングからバークシャー州の問題

の村へ列車で向かっていた。みんなというのはシャーロック・ホームズと水力技師、ス

コットランド・ヤードのブラッドストリート警部と刑事がひとり、そしてぼくだ。ブラッ

ドストリート警部はこのあたりの測量地図を座席の上に広げ、アイフォードを中心にコン

パスで円を描いていた。


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09/29 23:29