シャーロック・ホームズはそれを取ってたんすをあけた。
「音がしませんね。ホールダーさんが目を覚まされなかったのも無理はない。このケース
に宝冠が入っているんですね。ちょっと拝見しますよ」ホームズはケースをあけて宝冠を
取り出し、化粧台の上に置いた。それは宝石工芸の至高の逸品で、三十六個のエメラルド
は、見たこともないほどの美しさだった。しかしその一端がねじ曲がってひびが入ってい
る。三つのエメラルドがついた一角がもぎとられた部分だ。
「ではホールダーさん、不幸にも失われた一角と対をなす一角がこちらにある。すみませ
んが、これをもぎ取っていただけますか?」
銀行家はぞっとしてあとずさった。「とんでもない」
「では、わたしがやりましょう」ホームズはその一角にぐっと力をかけたが、宝冠はびく
ともしなかった。「ほんの少しは曲がったように思います。わたしはかなり握力が強いほ
うですが、それでもこれをもぎとるには相当の時間がかかりますよ。ふつうの人間にはで
きない。ともかく、ホールダーさん、もしこれをもぎ取ったとしたら、どうなると思いま
す? ピストルでも撃ったような、大きな音がしますよ。どうです、そんなことがあなた
のベッドの数ヤード先で起こったのに、あなたはなにも聞こえなかったのでしょうか?」
「どう考えたらいいのかわからない。さっぱりわかりませんよ」
「まあ、もう少ししたらわかってきますよ。あなたはどうですか、メアリーさん?」
「正直申し上げて、わたしも伯父と同じで、なにもわかりませんわ」
「息子さんはホールダーさんがごらんになったとき、靴もスリッパもはいておられなかっ
たのですね?」
「ズボンとシャツ以外はなにも身につけていませんでした」
「ありがとうございます。今回の調査は、たいへん幸運に恵まれたようです。もしこれで
事件が解決しなかったら、それはまったくもってわれわれの責任です。ホールダーさん、
よかったらもう一度、外を調べさせてください」
ホームズはぜひひとりでいかせてくれといった。よけいな足跡がつくと、仕事がやりに
くくなるからというのだ。それから一時間かそこら、外まわりを調べたあと、靴を雪だら
けにしてようやく帰ってきたが、その顔つきからは相変わらずなにも読み取れなかった。
「ホールダーさん、たぶんこれで見るべきものはぜんぶ見せていただきました。あとはわ
たしの部屋にもどったほうが仕事がはかどると思います」
「しかし宝石は? ホームズさん、宝石はどこです?」
「それはわかりません」
銀行家は両手をもみ合わせて叫んだ。「宝石はもう見つからないんだ! では息子
は? 希望はあるのでしょうか?」
「わたしの意見はまったく変わっていません」
「ではゆうべ起こった恐ろしい出来事はいったいなんだったというのです?」
「明日あしたの朝、九時から十時のあいだにベイカー街のわたしの部屋にお越しいただけ
れば、もっとはっきりとご説明いたします。あなたはたしか、宝石を取りもどせるのな
ら、わたしにすべてまかせるとおっしゃいましたね。費用にも糸目はつけないと」
「宝石がもどってくるなら、全財産をなげうってもいい」
「それはすばらしい。ではこの件に関して、明日の朝までによく調べておきます。いった
ん失礼しますが、ひょっとすると午後にもう一度お邪魔するかもしれません」
ホームズがこの事件に関して、すでに結論を出しているのはあきらかだった。ただし、
それがどういう結論なのか、ぼくには見当もつかなかった。帰る途中に何度も探りを入れ
てみたが、そのたびにホームズは話をそらすので、とうとうぼくもあきらめてしまった。
ベイカー街の部屋にもどったのは三時前だった。ホームズは急いで自分の部屋に入り、数
分後にふたたび現れたときには、みすぼらしい格好をしていた。てかてか光る薄汚いコー
トの襟を立て、赤いスカーフを巻いて、すり切れた靴をはいた姿は、まさに宿無しの典型
だった。
「これでいい」暖炉の上の鏡を見ながらそういう。「きみもいっしょにこられるといいん
だがね、ワトスン。だがそれは無理だろう。ぼくはこの事件の手がかりをつかんだように
思うが、ひょっとしたら幻を追っているのかもしれない。だがもうすぐ、そのどっちかわ
かるだろう。二、三時間でもどれると思う」それからホームズは、戸棚の上の牛の骨つき
肉から、肉を一切れスライスして二枚のパンのあいだにはさみ、その粗末な食べ物をポ
ケットに突っこんで探検に出発した。
ぼくがちょうど軽い夕食をすませたとき、ホームズは帰ってきた。みるからに上機嫌
で、古い深ゴム靴の片われを手で持って振りまわしている。それを部屋の片すみに放り投
げると、自分でお茶を一杯入れて飲んだ。
「通りがかりにちょっと寄っただけだ。またすぐ出かける」
「どこへ?」
「ウェスト・エンドの向こうさ。もどるまでだいぶかかるかもしれない。遅くなったら先
に寝ていてくれ」
「首尾はどうだい?」
「うん、まあまあだ。なにも問題はない。じつはストレタムへいってたんだが、あの家に
は寄らなかった。これはじつにおもしろい事件だ。なにがあっても見逃せないね。しか
し、こうやってのんびりおしゃべりをしている暇はない。このみすぼらしい服を脱いで、
もとの自分にもどらないと」
ホームズの態度をみれば、口でいっている以上に強い根拠があって満足していることが
わかった。目は輝き、いつもは血色の悪い頰にほんのり赤みも差している。二階へ駆けあ
がったかと思うと、数分後にはバタンと玄関の扉を閉めて、また大好きな捜査に出発し
た。
ぼくは十二時まで起きて待っていたが、ホームズが帰ってくる気配はなかったので、自
分の部屋に引きあげた。ホームズが捜査に夢中になって何日も帰ってこないことはよく
あったので、帰りが遅くなってもちっとも不思議ではなかった。いったい何時に帰ってき
たのかわからないが、翌朝ぼくが朝食におりてくると、ホームズが片手にコーヒー、片手
に新聞を持って、きちんと身支度し、活気にあふれたようすでそこにいた。
「悪いけど、お先に始めさせてもらってるよ、ワトスン。今朝はけっこう早くからお客が
くることになっているだろう」
「あれ、もう九時過ぎか。もうホールダー氏が現れたっておかしくないね。呼鈴が鳴った
ようだ」
それはたしかにあの銀行家だった。ぼくが驚いたのは、その変わりようだ。もともと大
きくて肉づきのよい顔が、今朝はやつれて頰がこけている。髪の毛も少し白くなったよう
だ。部屋に入ってくるときのぐったりしたようすは、きのうの朝のおかしなようすよりさ
らに痛々しい。ぼくの勧めた肘ひじ掛かけ椅い子すに崩れ落ちるようにしてすわった。
「いったいわたしが何をしたというんでしょう。こんなひどい目に遭うなんて」ホール
ダー氏は口を開いた。「二日前まで、わたしは幸せな人間でした。暮らし向きもよく、な
んの心配事もなかった。それがいまは、ひとり取り残され、名誉を傷つけられた老人に
なってしまった。不幸がつぎからつぎへと襲ってくる。姪めいのメアリーがわたしを見捨
てました」