「見捨てた?」
「はい。今朝、メアリーのベッドには寝た形跡がなく、部屋はもぬけの殻でした。そして
玄関ホールのテーブルの上に、わたし宛ての手紙が置いてあったのです。ゆうべわたしは
メアリーにいいました。おまえがアーサーと結婚していてくれたら、こんなことにはなら
なかったのに、と。怒っていったわけではありません。ただ悲しかったのです。でもたぶ
ん、そんなことをいってはいけなかったのでしょう。メアリーも手紙のなかでそのことに
触れています。
最愛のおじさまへ
こんどのような災難がおじさまの身に降りかかったのは、わたしのせいです。わたしが
もっとちがう選択をしていれば、こんな恐ろしいことはけっして起こらなかったでしょう
に。そう考えますと、もうおじさまと同じ屋根の下で幸せに暮らしていくことはできそう
にありません。わたしはおじさまの前から永久に姿を消さねばならないと思います。わた
しの将来については、備えもありますので、ご心配くださいませんように。そしてくれぐ
れも、わたしを探そうとなさるのはおやめください。それは無駄な骨折りになりますし、
わたしのためにもなりません。
──永遠におじさまを愛するメアリーより。
こんな手紙を書いて、いったいどういうつもりなんでしょう、ホームズさん。自殺でも
するつもりでしょうか?」
「いえいえ、そんなことはありません。おそらくこれが最善の策だったのでしょう。ホー
ルダーさん、あなたの災難も終わりに近づいていますよ」
「ええっ、そうなんですか! なにか耳寄りな情報がありましたか! 宝石はどこにあり
ます?」
「あの宝石が一個千ポンドでも、高すぎるとは思われませんね?」
「一万ポンドでもいい」
「それは多すぎる。三千ポンドで十分です。それと、報酬を少しいただければ。小切手帳
はお持ちですか? ペンはここにあります。四千ポンドと書いてください」
銀行家はあっけにとられた顔で、いわれたとおりの額を書きこんだ。ホームズは自分の
机のほうへ歩いていくと、三つの宝石のついた小さな三角形の金のかけらを取り出して、
テーブルの上に置いた。
銀行家は甲高い声をあげて、それをつかみあげた。
「あったんですね!」あえぎながらいう。「助かった! 助かったぞ!」
悲しみが大きかったぶん、喜びもひとしおで、ホールダー氏はもどってきた宝石を胸に
抱きしめた。
「あなたにはもうひとつ、返さなければならない借りがありますよ、ホールダーさん」
シャーロック・ホームズが少し厳しい口調でいった。
「借り!」ホールダー氏はペンを握った。「いくらです、金額をおっしゃってくだされば
払います」
「いいえ、わたしに対する借りではありません。あの気高い若者、つまりあなたの息子さ
んに対して、謙虚に謝らねばならないということです。こんどの事件で、息子さんはとて
もりっぱに振る舞われました。もしわたしに息子があって、あのように振る舞うのを見た
ら、わたしは誇りに思うでしょう」
「では、これを盗とったのはアーサーじゃないんですね?」
「わたしはきのうもそう申しました。今日も改めてそう申し上げます」
「たしかなんですな! ではすぐに息子のところへいって、真実がわかったと知らせてや
りましょう」
「もうご存じですよ。すべてあきらかになったとき、わたしは息子さんに面会にいきまし
た。息子さんのほうからは話そうとなさらないので、わたしから話しました。その説明を
聞いて、そのとおりだとしぶしぶ認められて、ほんの少しですが、わたしもよくわからな
かった点を教えてくださいました。しかし、あなたが今日、ここで仕入れたニュースを
持っていかれたら、息子さんももっとしゃべってくださるでしょう」
「ではお願いします、教えてください、この不思議きわまりない事件は、いったいなん
だったのです?」
「お教えしましょう。それも、わたしがその解明にいたった道筋を追ってご説明します。
ではまず、わたしにとって最もいいにくく、あなたにとっては最も聞きたくないことから
申し上げます。サー・ジョージ・バーンウェルとあなたの姪のメアリーさんは、ひそかに
結婚の約束をしていました。ふたりはいま、いっしょに逃げています」
「メアリーが? そんなことはありえない!」
「いいえ、残念ながら、それは事実です。あなたもあなたの息子さんも、バーンウェルと
いう男の正体を知らないまま、家に出入りするのを許しておられた。あの男はこの国でも
有数の危険人物なのです。賭と博ばくに身を持ち崩したどうしようもない悪党、良心のか
けらもない男です。あなたの姪ごさんは、ああいう種類の男のことをなにも知らなかっ
た。あの男がメアリーさんに愛をささやいたとき、それはあいつがいままで百人もの女性
に使ってきた手口だったのに、メアリーさんは自分だけがあの男の心に触れたのだと思い
こみました。あいつがなんといったかはわかりませんが、とにかくメアリーさんはあの男
のいいなりになってしまい、ほとんど毎晩、あいびきするようになりました」
「とても信じられない、信じたくもない!」銀行家は真っ青な顔で吐き捨てた。
「ではこれからあの晩、あなたの家でなにがあったのかお話ししましょう。メアリーさん
はあなたが寝室に入ったと思ったので、こっそり一階へおりて、窓越しに恋人と言葉を交
わしました。馬小屋へ続く道が見える窓です。男の足跡が雪の上にしっかりついていまし
たから、かなり長いあいだ、そこに立っていたのでしょう。メアリーさんは男に宝冠のこ
とを話しました。それを聞いて、この男の金に対する邪悪な欲望に火がつき、メアリーさ
んに自分のいうとおりするよう説き伏せました。メアリーさんがあなたを愛していたのは
まちがいありませんが、世の中には恋人への愛のために、すべてを見失ってしまう女性が
いるのです。メアリーさんはそういう女性だったにちがいありません。男の指示をかろう
じて聞き終わったところであなたが二階からおりてくるのが見え、あわてて窓を閉めて、
メイドのひとりが義足の恋人とあいびきしているとあなたに告げ口しました。それはそれ
でまったくほんとうの話だったのですが。
いっぽう息子さんのアーサー君は、あなたと話したあと、ベッドに入りましたが、クラ
ブの借金のことが気になって寝つけませんでした。真夜中に自分の部屋の前を忍び歩く音
が聞こえたので、起きてのぞいてみると、驚いたことにいとこのメアリーさんがこっそり
廊下を歩き、あなたの化粧室へ消えていったのです。びっくりした息子さんはあわてて
シャツとズボンだけ身につけると、これからいったいどうなるのか見届けようと、暗闇の
なかで待っていました。やがてメアリーさんは化粧室から出てきましたが、あの貴重な宝
冠を手にしていることが、廊下の明かりに照らされて見えました。メアリーさんは階段を
おりていき、息子さんは恐怖に震えながらあわてて廊下を走り、あなたの部屋の近くの
カーテンの裏に隠れました。そこから下の玄関ホールのようすが見えます。メアリーさん
がこっそり窓をあけ、外の暗がりにいるだれかに宝冠を渡しました。そしてまた窓を閉め
ると、息子さんが隠れているカーテンのすぐそばを通り、急いで自分の部屋にもどりまし
た。