メアリーさんがその場にいるかぎり、息子さんはなんの行動もとれませんでした。そん
なことをすると、愛する女性の悪事が発覚してしまいます。しかし彼女が姿を消した瞬
間、このことがあなたにとってどんなに致命的な災難となるかに気づき、なんとしてもあ
の宝冠を取りもどさなければならないと考えたのです。息子さんははだしのまま一階へ駆
けおり、窓をあけて雪のなかへ飛び出すと、小道を走っていきました。その先の月明かり
のなかに、暗い人影が見えます。サー・ジョージ・バーンウェルは逃げようとしました
が、アーサー君がつかまえてもみあいになり、ひとりが宝冠のいっぽうの端を、もうひと
りが反対の端をつかんで引っぱりあいになりました。取っ組みあいのなかで、アーサー君
はサー・ジョージを殴りつけ、目の上に傷をつけました。そのときふいにバキッと音がし
て、アーサー君は自分の手に宝冠があるのに気づきました。そこであわてて取って返し、
窓を閉め、あなたの部屋までいって、そこで初めて宝冠がもみあいのなかでねじ曲がって
いるのに気がつきました。あわててそれを直そうとしたところへあなたが現れたのです」
「ほんとうですか?」銀行家がのどを詰まらせていった。
「あなたは怒り狂って息子さんをののしりました。息子さんとしては、あなたから最大級
の感謝の言葉を受けても当然という気持ちだったのに、です。しかし真相を話せばメア
リーさんの罪を暴くことになる。なんの思いやりにも値しない女であることはたしかなの
に、息子さんは騎士道精神にのっとって、彼女の秘密を守ったのです」
「ではメアリーが宝冠を見て悲鳴をあげ、気絶したのは、そのせいだったのか!」ホール
ダー氏は叫んだ。「おお、わたしはなんという愚か者だったのだ! アーサーが五分だけ
外にいかせてくれといったことも、いま考えれば、あの子はなくなった部分がもみあいの
現場に落ちていないか、見にいこうと思ったんだろう。わたしはなんとひどい誤解をした
んだろう!」
「わたしはお宅に着いたとき、すぐに家のまわりを注意深く観察しました。なにか手がか
りになるような痕こん跡せきが雪のなかに残っているのではないかと思ったからです。前
日の夕方から雪は降っていませんでしたし、冷え込みが厳しかったので、足跡が残ってい
るはずでした。勝手口に通じる道を見ましたが、そこはひどく踏み荒らされて、なにもわ
かりませんでした。しかし勝手口を通り過ぎたところに、女性と男性が立ち話をした跡が
ありました。男性のほうは片方の足跡のかわりに丸い跡がついていて、義足の男だとわか
りました。ふたりの逢おう瀬せに途中で邪魔が入ったこともわかりました。女性が勝手口
に向かって急いでもどったことが、つま先のほうが深く、かかとが浅い足跡からわかった
からです。義足の男はしばらくその場にとどまったあと、帰ったようでした。わたしはそ
のとき、おそらくこれはあなたが話してくださったメイドとその恋人だろうと思い、その
後の調査でそれははっきりしました。裏庭も見てまわりましたが、めちゃくちゃに踏み荒
らされていて、なにもわかりません。おそらく警察の足跡だろうと思いました。しかしそ
のあと馬小屋に続く道へいくと、非常に長くて複雑な物語が、目の前の雪のなかに綴つづ
られていたのです。
靴をはいた男が往復した跡と、もうひとり、別の人物が往復した跡がありました。こっ
ちの足跡は、なんとうれしいことに、はだしの男の足跡でした。あなたの話からして、こ
れはアーサー君のものにちがいないとピンときました。靴の足跡は行きも帰りも歩いてい
ますが、はだしのほうは駆け足で、ところどころ靴跡の上にかぶさっています。このこと
から、はだしのほうが靴をはいた男を追いかけてきたのはあきらかです。わたしは足跡を
たどって、それが玄関ホールの窓の下に続いているのを見つけました。靴をはいた男はそ
こで待っていたらしく、雪がずいぶん踏みしめられていました。そのあと靴の男はもとき
た方向へもどっていき、馬小屋へ続く道を百ヤードかそこら歩いていきました。しかしそ
こで靴の跡が反対を向き、雪がぐちゃぐちゃになって、争いでもあったような感じでし
た。おまけに血の跡まで数滴落ちていたので、その考えにまちがいないと確信しました。
靴の跡はそれから小道を走っていき、そこにもまた血の跡が少し見受けられたので、怪我
をしたのはこちらの男だとわかりました。小道から大通りへ出ると、きれいに雪かきがし
てあったので、手がかりもそこでしまいになりました。
しかしその後、家のなかに入ったわたしは、覚えておいででしょうか、ルーペで玄関
ホールの敷居を調べ、すぐに、だれかがこの窓を乗り越えたとわかりました。外からなか
に入るときについた、濡ぬれた足跡がはっきり認められたからです。ここまできて、前の
晩にいったいなにが起きたのか、だんだんと考えがまとまってきました。男が窓の外で
待っていて、だれかがその男に宝冠を持ってきた。それをあなたの息子さんが目撃して、
泥棒を追いかけ、相手ともみあいになって、宝冠を引っぱりあった。二人の力が合わさっ
た結果、ひとりではとてもつけられないような傷がついてしまった。息子さんは宝冠を
持って帰ってきましたが、破片は泥棒の手に残った。残る問題はその泥棒の男がだれかと
いうことと、その男に宝冠を持っていったのはだれかということです。
わたしは昔からある定理を利用してきました。それは、不可能なことを除去していけ
ば、残ったものが、いかにありそうもないことでも真実である、というものです。この場
合、宝冠を持ってきたのがあなたでないことははっきりしています。すると残るはあなた
の姪めいごさんか、メイドしかいない。しかしもしメイドだとすると、息子さんはどうし
て自分が罪をかぶってまでかばおうとするのか、説明がつきません。しかしもしメアリー
さんなら、息子さんは彼女のことを愛していたのですから、秘密を守ってやらなくてはな
らないという思いからだと十分に説明できます。その秘密が不名誉なものであればあるほ
ど、その思いは強くなるでしょう。あなたが窓際でメアリーさんを見たという話や、彼女
が宝冠を見て気絶したという話を思い出したとき、わたしの推測は確信に変わりました。
では共犯者の男はいったいだれなのでしょう? もちろん恋人にちがいありません。そ
れ以外のだれが、メアリーさんのあなたに対する愛や感謝を圧倒することができるでしょ
う。あなたがあまり外出を好まず、友人もかぎられていたことはお聞きしていました。し
かしその数少ない友人のなかに、サー・ジョージ・バーンウェルがいたのです。わたしは
以前からこの男が女癖の悪いことで評判の人物だと知っていました。あの靴をはいた男、
なくなった宝石を持っている男はサー・ジョージにちがいありません。彼はアーサー君に
顔を見られてしまったわけですが、自分は安全だと信じていました。アーサー君が真相を
話せば、自分の家族の名誉を傷つけてしまうからです。
さあ、そこでわたしがつぎにどんな手を打ったか、勘のいいあなたにはもうおわかりで
しょう。わたしはみすぼらしい格好をしてサー・ジョージの家へいき、そこの使用人と知
り合いになって、主人が前の晩に頭に怪我をして帰ってきたことを知りました。そして、
六シリングはたいてようやくその主人のはき古しの靴を手に入れ、それを持ってストレタ
ムまでいき、それが馬屋道の足跡にぴったり合うのを確認したのです」
「きのうの夕方、そこの小道で汚らしい格好をした男を見かけました」ホールダー氏が
いった。
「そうでしょう。それがわたしです。犯人がわかったので、わたしは家に帰って服を着替
えました。そのあと、わたしの仕事は慎重を要する難しい局面に達しました。スキャンダ
ルを避けるためには、警察沙ざ汰たは避けなければならないし、相手は目ざとい悪人です
から、われわれのそんな事情に気づくはずです。わたしはサー・ジョージに会いにいきま
した。最初はもちろん、彼はすべてを否定しました。しかしわたしが事件の経過を細部ま
で話してやると、こんどはわたしを脅しにかかって、壁から護身用のステッキを取りまし
た。しかしわたしも相手がどんなやつか知っていますから、先手を打って頭にピストルを
突きつけてやったのです。それで彼も少し聞き分けがよくなりました。わたしは彼が持っ
ている宝石を、ひとつ千ポンドで買おうと申し出ました。するとやつは初めてくやしそう
な顔をして、『なんだと! 三つ六百ポンドでもう売っちまった!』といったのです。わ
たしはやつを警察に突き出したりしないという約束と引き換えに、売り先を聞き出しまし
た。それからすぐその故買屋のところへいき、さんざん値切った末に、一個千ポンドで宝
石を取りもどしたのです。そのあと息子さんを訪ね、なにもかも解決したと伝え、ようや
く床に就いたのは午前二時でした。いま思うとなかなかハードな一日でしたね」
「イギリスを一大スキャンダルから救った一日です」銀行家が立ち上がっていった。
「ホームズさん、なんとお礼を申し上げてよいやらわかりません。このご恩はけっして忘
れませんよ。ほんとうに、聞きしにまさるお手並みです。ではわたしはこれから息子のと
ころへ飛んでいき、わたしのひどいあやまちを詫わびてきます。しかし、ホームズさんか
らうかがった哀れなメアリーの話が胸にこたえますよ。あなたの技量を持ってしても、あ
の娘がいまどこにいるかはわかりませんでしょうね」
「たしかなのは、メアリーさんはサー・ジョージ・バーンウェルといっしょにいるという
ことです。それと、彼女の罪状がどうあれ、いずれ十分な報いを受ける。それもまた同じ
くらいたしかにいえるでしょうね」