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シルヴァー・ブレイズ(2)
日期:2024-01-31 23:37  点击:289

 メイドが廏舎の三十ヤードほど手前まで来たとき、暗がりから男がぬっと現われ、彼女

を呼び止めた。男がランプの黄色い光の円に近づいてくると、姿がはっきり見えた。灰色

のツイードのスーツに布製の帽子をかぶった紳士風の男で、足にはゲートルを巻き、手に

は丸い握りのついた太いステッキを持っていた。しかしメイドがなによりも強い印象を受

けたのは、男の真っ青な顔とひどく落ち着かない態度だった。年齢は三十そこそこだろう

と彼女は言っている。

『ここはいったいどのあたりだい?』と男は尋ねた。『今夜は荒れ地で野宿するしかない

とあきらめかけていたら、ランプの灯が見えたものでね』

『キングス・パイランド廏舎のそばですよ』メイドは答えた。

『そうだったのか! そいつは運がいい。廏舎には毎晩、馬丁が一人で泊まりこむんだろ

う? きみはその馬丁の夕食を運んでいくところだね? どうだろう、ものは相談だが、

ドレスを新調できるくらいの金を稼ぐ気はないか? 変な意地は張らないほうが得だと思

うけどね』男はそう持ちかけて、チョッキのポケットから折りたたんだ白い紙を取りだし

た。『これを馬丁に渡してもらえないかな。そうすれば、とびきり上等のドレスを買える

よ』

 やけに真剣な態度だったので、気味が悪くなったメイドは、急いで男の脇をすり抜け、

いつも食事を受け渡す廏舎の窓に駆け寄った。窓はすでに開いていて、ネッド・ハンター

はそのすぐ内側の小さなテーブルの前に座っていた。メイドが今し方の出来事を話してい

ると、くだんの見知らぬ男が再び現われた。

『こんばんは。ちょっと話があるんだ』男は窓から室内をのぞきこんで言った。その握り

しめた手から、さっきの折りたたんだ紙の端がはみでていたとメイドは証言している。

『いったいなんの用だ?』ハンターが訊きいた。

『ちょっとした小遣い稼ぎをしないか? ここにはウェセックス・カップに出る馬が二頭

いるだろう? シルヴァー・ブレイズとベイヤードが。なあ、とっておきの裏情報を教え

てくれれば、絶対に損はさせないよ。負担重量を考えると、ベイヤードはシルヴァー・ブ

レイズに五ハロンで百ヤードの差をつけられるはずだから、この廏舎じゃ全員がベイヤー

ドに賭けてるって噂を小耳にはさんだんだ。本当のところはどうなんだい?』

『さてはおまえ、薄汚い情報屋だな! そういう野郎はキングス・パイランドでどんな目

に遭うか、たっぷりと思い知らせてやる』ハンターは勢いよく立ちあがり、番犬を放すた

め廏舎の奥へ駆けていった。メイドは調教師の家に向かって逃げだしたが、走りながら振

り返ると、怪しい男が廏舎の窓へ上半身を突っこもうとしていた。けれども、その直後に

ハンターが犬を連れて戻ったときには、男はすでに消えていた。廏舎のまわりを捜してみ

たが、姿はどこにも見あたらなかったそうだ」

「ちょっと待った!」私は口をはさんだ。「馬丁は犬を連れて廏舎から出るとき、ドアの

鍵をかけたのかい?」

「おみごと。ワトスン、すばらしいじゃないか」ホームズはつぶやくように言った。「僕

もそこが気にかかってね。重要だと思ったから、昨日ダートムアに至急電報で問い合わせ

てみた。すると、馬丁は廏舎を離れる際にドアをきちんと施錠したとのことだった。それ

から、窓のほうも大人の男が通り抜けられるだけの大きさはないそうだ。

 ハンターはほかの馬丁が戻ってくると、事態を調教師のところへ報告に行かせた。スト

レイカーは話を聞いて興奮した様子だったという。その出来事が具体的になにを意味する

のかはわからなかったようだが、漠然とした不安にとらわれたらしく、夜中の一時に奥さ

んがふと目を覚ますと、夫は服に着替えているところだった。どうしたのかと訊くと、馬

たちのことが心配で眠れないから、廏舎まで様子を見にいってくるとの返事だった。窓に

打ちつける激しい雨音がしていたので、奥さんは出かけないほうがいいと引き止めたが、

ストレイカーは耳を貸さず、レインコートを着て家をあとにした。

 奥さんが翌朝七時に起床したとき、夫はまだ戻っていなかった。急いで身支度を整える

と、メイドを呼んで一緒に廏舎へ行った。ドアは開けっ放しになっていた。室内では、馬

丁のハンターが椅子で丸まって眠りこけている。シルヴァー・ブレイズの馬房は空っぽ

で、調教師の姿はどこにもない。

 ほかの二人の馬丁は馬具置き場の二階にある藁わら切り部屋で寝ていたが、ただちに起

こされた。二人とも熟睡していて、夜中の不審な物音にはまったく気づかなかったそう

だ。ハンターはなにか強い薬を摂取したらしく、とても話を聞ける状態ではなかった。し

かたないので正気に返るまでそのまま寝かせておくことにし、馬丁二人と女二人で馬と調

教師を捜しに出た。まだあまり深刻にはとらえておらず、わけあって馬を早朝の運動に連

れだしたのかもしれないと一いち縷るの望みを抱いていた。ところが、周辺の荒野をはる

か遠くまで見渡せる小高い丘にのぼって、馬の姿がどこにもないとわかったので、さすが

にこれはただごとではないと察した。

 すると、廏舎から四分の一マイルほど離れたハリエニシダの茂みで、ストレイカーのレ

インコートが枝に引っかかってはためいていた。すぐ先に丸い窪くぼ地ちがあり、その底

から哀れな調教師の死体が発見された。頭部を重い鈍器で砕かれ、太ふと腿ももには鋭利

な刃物がつけたとおぼしき長い切り傷が残っていた。襲撃者に激しく抵抗したものと見ら

れ、右手に握りしめた小型ナイフには柄の部分までべっとりと血がついていた。左手には

赤と黒のシルクのスカーフをつかんでいたが、メイドによれば、それは前夜に廏舎へ押し

かけてきた怪しい男が首に巻いていたものだそうだ。

 スカーフについては、意識を取り戻したハンターも同じように証言している。さらに、

あの男が廏舎の夜番を眠らせようと、窓から手を突っこんでマトンのカレー煮に薬物を混

入したにちがいない、と主張した。

 消えた馬のことだが、窪地の底の泥に蹄ひづめの跡が無数に残っていたので、格闘が

あったときにその場にいたのはまちがいなかった。しかし行方は依然としてわからない。

多額の懸賞金がかけられ、ダートムアのロマたちも目を皿にして捜しているが、消息は今

もつかめないままだ。

 最後につけ加えると、ハンターが食べた夕食の残りを調べたところ、多量の粉末アヘン

が検出された。だが同じ晩に同じ料理を食べたほかの者たちにはなんの異状もなかった。

 さあ、ここまでが事件の概略だ。推測はできるだけ取り除いて、ありのままの事実を述

べたつもりだ。じゃあ今度は、警察の捜査状況について簡単に説明しておこう。

 事件を担当するグレゴリー警部は、きわめて優秀な警察官だ。もう少し想像力があれ

ば、大いに出世すると思うがね。警部は現場に到着すると、例の怪しい男をただちに見つ

けて逮捕した。当然ながら容疑者だからね。近辺ではよく知られた男だったので、捜しだ

すのはさして難しくなかった。名前はフィッツロイ・シンプスン。良家の出身で、高い教

育を受けたにもかかわらず、競馬に入れあげて身を持ち崩してしまった。現在はロンドン

のスポーツクラブに出入りして、私設馬券屋でどうにかこうにか食っている。当人の賭か

け金帳を調べたら、シルヴァー・ブレイズの対抗馬に自分で五千ポンドも賭けていた。


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09/29 17:29