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ボール箱(1)
日期:2024-01-31 23:37  点击:289

ボール箱

 友人シャーロック・ホームズのずば抜けた知性を十二分に物語っている事件を選ぶにあ

たっては、猟奇的な要素がなるべく少なく、なおかつ彼の才能を明快に示しているものを

と心がけてきた。しかしながら、あいにく犯罪事件には猟奇的な要素がつきものである。

事件についてまちがった印象を植えつける恐れがあっても、あえて話の根幹をなす細部を

省くべきか、それとも選り分けずに、与えられた材料をそっくりそのまま使うべきか、伝

記作者としては大いに悩むところである。

 こう短く前置きをしたうえで、私の記録の中から、独特の恐ろしさをまとった一連の奇

怪な出来事をお伝えしよう。

 それは、太陽がぎらぎらと照りつける八月のある日のことだった。ベイカー街の下宿は

オーヴンに突っこまれたかのような暑さで、道路の向かいに並ぶ家々の黄色いレンガの照

り返しが、目に痛いほどだった。あれが冬のあいだずっと霧に包まれ、陰気に薄ぼんやり

としか見えなかったのと同じ壁だとはとても信じられない。私たちの部屋はブラインドが

半分下りていた。ホームズはソファに丸くなって横たわり、朝の郵便で届いた一通の手紙

を何度も読み返していた。私のほうは軍医としてインドで暮らしたことがあるので、寒さ

よりは暑さのほうがしのぎやすく、華氏九十度( 訳注:摂氏約三十二度 )の気温にもびくともし

なかった。だが朝刊がつまらないのには閉口した。議会は閉会中だし、ロンドンは閑散と

している。私もニューフォレストの森やサウスシーの浜辺へ出かけたいものだが、銀行預

金が乏しくなってきたため、避暑地での休暇は当分おあずけだ。ホームズはどうかという

と、田園も海浜もまったく眼中にないようで、人口五百万の大都会の真ん中で蜘蛛くもの

ように巣を張りめぐらしている。未解決事件の噂や疑惑が少しでも糸に引っかかれば、即

座に行動を開始しようというわけだ。彼は多彩な才能の持ち主だが、自然観賞には食指が

動かないらしく、ロンドンを離れるのは、追いかける相手をたまに都会の悪党から田舎の

悪党に変えるときくらいなものだった。

 ホームズが手紙に集中しているので話しかけるわけにもいかず、私は退屈な新聞を脇へ

放って椅子の背にもたれ、ぼんやりと物思いにふけった。やがて、唐突にホームズの声が

割りこんできた。

「そのとおりだとも、ワトスン。それは国際紛争を解決するうえで、もっとも愚かしい方

法だ」

「ああ、愚かしい方法だ!」と叫んだあとで、私ははっとした。ホームズの言葉は、まさ

に私が心の底で考えていたことだったのだ。思わず背中を起こし、あっけにとられてホー

ムズを見つめた。

「どういうことなんだい、ホームズ? 驚いたな、まさかこんなことが本当にあろうと

は」

 私が面食らっていると、ホームズはにっこりと笑った。

「覚えてるかい? 少し前のことだが、ポーの小説の一節をきみに読んで聞かせたことが

あったろう? 推理の達人が相棒の考えていることをずばりと言い当てる話だ。きみはそ

れを作家の単なる奇抜な離れ業ととらえた。実際に同じことを日頃からやっているよ、と

僕が言っても、本気にしなかったね」

「そんなことはない!」

「ワトスン、口に出さなくたって、顔にはっきり書いてあったよ。だから、きみがさっき

新聞を放りだして物思いにふけったとき、考えを読み取る絶好の機会だと思ったんだ。き

みの思考にうまく入りこめたということは、互いに心が通い合っているなによりの証拠だ

ね」

 しかし、私はまだ納得が行かなかった。「きみが読んでくれた小説の一節では、推理の

達人は相棒の動作を観察して結論を導きだしたんだよ。ええと、たしか、積んである石に

つまずくとか、星空を見上げるとか、そういった動作をね。だが私は椅子にじっと座って

いて、推理のもとになりそうなことはなにもしなかったはずだ」

「きみは自分のことがてんでわかってないね。人間にとって表情は感情を表わす道具なん

だ。きみの顔には心の動きがそのまま表われるんだよ」

「つまり、顔つきから考えを読み取ったということかい?」

「そうだよ。目はとりわけ雄弁だ。たぶんきみはもう、どんなふうに物思いを始めたか忘

れてしまっただろう?」

「ああ、忘れた」

「じゃあ、僕が説明してあげよう。きみが新聞を放りだしたときから注意深く見ていたん

だ。まず三十秒ほどぼんやりしていたね。そのあと額装したばかりのゴードン将軍( 訳注:

一八三三─八五、イギリスの植民地行政官 )の肖像画にじっと目を凝らした。すると顔つきが変わっ

たので、考え事に浸り始めたんだなとわかった。まだ深くはなかったがね。そのあと本の

上に立ててあるヘンリー・ウォード・ビーチャー( 訳注:一八一三─八七、アメリカの牧師 )の額に

入っていない肖像画をちらりと見て、壁の上のほうへ視線を移した。なにを意味するかは

明らかだ。絵を額に入れたら、あそこの空いている壁に飾ろう、そうすれば向かい側にあ

るゴードン将軍の肖像画と釣り合いがとれるぞ、と考えたにちがいない」

「すごいな、図星だ!」私は舌を巻いた。

「ここまではほとんど迷う必要がなかったよ。そのあとだが、きみの思考はビーチャーの

肖像画へ戻ると、彼の性格を外見から探ろうとでもいうような鋭いまなざしになった。や

がて目もとはゆるんだが、絵は見つめたままで、考えこむ顔つきだった。ビーチャーの生

涯について思い起こしていたんだろう。そうなれば当然、南北戦争で北軍のために背負っ

た任務のことを考えるはずだ。ビーチャーはイギリスへ来たとき、この国の粗暴な連中に

ひどい目に遭わされたが、きみはそれに激しく憤慨していたね。あの出来事は忘れように

も忘れられないはずだから、ビーチャーのことを考えるたび、それを思い出すにちがいな

いとわかったのさ。少しすると、きみの目は絵から離れてさまよい始めた。思考は南北戦

争そのものへ移ったらしいぞ、と僕は思った。唇を引き結び、瞳ひとみを輝かせ、両手に

拳こぶしを握りしめていたから、あの壮絶な戦いにおける両軍の勇猛さを思い浮かべてい

たんだろう。ところが、そのあと急に悲しげな表情に変わって、かぶりを振った。悲哀と

恐怖が胸に去来し、むなしく散った多くの命に思いを馳はせているようだった。やがて、

きみの手が戦争の古傷にそっと触れ、口もとに皮肉な笑みが浮かんだ。これは、国際問題

を戦争で解決しようとするのは愚かしいことだと考えたせいだろう。その点については僕

もまったくもって同感だったので、口に出して言ってみた。そうしたら幸いにも推理が当

たっていたわけだ」


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09/29 17:33