その男はセアラに会いにうちへ来るようになったんですが、おれたち夫婦ともすぐに打
ち解けました。カールした髪の、さっそうとした粋な男で、要領もいい。世界の半分は旅
してきたそうで、体験談をおもしろおかしく語ってくれる。つきあって楽しい相手だって
ことは否定しませんよ。船乗りにしちゃあ礼儀正しいから、もとは高級船員だったんだろ
うなと思いました。やつがうちに出入りするようになって一カ月経っても、まさかおれの
目を盗んであんな卑ひ怯きようなまねをしていたとは想像もしませんでした。そのうちに
やっと怪しいと気づいたんですが、それからはもう毎日が地獄でしたよ。
きっかけはほんのささいな出来事でした。ある日、おれが客間へ入ってくと、メアリー
はさも嬉うれしそうに顔をぱっと輝かせました。ところが、おれだとわかったとたん、
がっかりした顔でそっぽを向いたんです。すぐにぴんと来ましたよ。メアリーはおれをア
レック・フェアベアンだと思ったんです。そうとしか考えられない。やつがあの場にいた
ら、絶対に殺してましたよ。おれはかっとなると、見境がなくなるんでね。
メアリーはおれの殺気立った目つきに気づいたんでしょう。駆け寄ってきて、袖そでを
つかんで叫びました。『だめよ、ジム、やめてちょうだい!』おれがセアラはどこだと訊
くと、『台所にいるわ』という返事です。おれは台所へ行って、あの女にきっぱり言い渡
しました。『フェアベアンの野郎は二度とこの家に入れるな』『なぜ、どうして?』『お
れがそう決めたんだ』『まあ! 友達も来られないような家にはいられないわ』『だった
ら勝手に出ていくがいい。とにかく今度フェアベアンが来たら、あいつの片耳を切り落と
して、おまえに記念品として送りつけてやるからな』おれの剣幕に恐れをなしたのか、セ
アラはなにも言い返さず、その日の夕方に家を出ていきました。
セアラが根っからの性悪女だったのか、それともメアリーを浮気に走らせておれたち夫
婦の仲を引き裂こうとしたのか、いまだによくわかりません。とにかくあの女はおれの家
から通りをふたつ隔てただけの近所に引っ越し、船員相手の下宿屋を始めました。フェア
ベアンはそこを常宿にしていて、メアリーはあいつと姉とお茶を飲みに足繁く通ってまし
たよ。そこである日、あとを尾つけていって玄関から押し入ったんです。フェアベアンは
裏庭の塀からしっぽを巻いて逃げだしやがった。おれはメアリーに、今度あの男と一緒に
いるところを見つけたら命はないぞと言って、真っ青な顔で震えながらすすり泣くあいつ
を無理やり連れ帰りました。もう夫婦の愛情なんぞかけらも残ってません。女房はおれを
憎み、恐れてた。おれはそれがおもしろくなくてやけ酒をあおり、ますます女房に嫌われ
た。
セアラのほうは生活が苦しくなったんで、じきにリヴァプールからいなくなりました。
クロイドンの姉の家にでも転がりこんだんでしょう。でもうちの家庭は壊れたまんまで
す。そして先週とんでもないことになって、とうとう破滅しちまったんです。
なにがあったのか、これからお話しします。おれはメイデイ号に乗って、一週間の航海
に出発しました。ところが、積んであった大おお樽だるが倒れて船材の修理が必要になっ
たんで、リヴァプールへ引き返し、港で十二時間待機することになったんです。おれは下
船して家へ向かいました。メアリーは驚くだろうな、もしかするとあいつの喜ぶ顔を見ら
れるかもしれないな。そんな淡い期待を抱きながら家の近くまで来たとき、一台の辻つじ
馬車が目の前を通り過ぎました。乗ってたのは、なんと妻とフェアベアンでした。並んで
座って、笑いながらしゃべってる。歩道に呆ぼう然ぜんと立ちすくんでるおれにはこれっ
ぽっちも気づかない。
聞いてください、その瞬間から自分が自分じゃなくなっちまったんです。今思い返して
も、夢の中で起こったことみたいにぼやけてる。ずっと酒を浴びるほど飲んでたし、そん
な場面を見ちまったから、頭が変になったんだ。今だってね、頭の中で音ががんがん鳴っ
てるんですよ。ドック作業のハンマーそっくりにね。でもあの朝は、耳もとでナイアガラ
の滝がごうごういって流れ落ちてるみたいでした。
で、どうしたかというと、走って馬車を追いかけたんです。樫かしの木の重いステッキ
を握りしめてね。完全に頭に血がのぼってました。でもだんだんずるい考えが働いて、姿
を見られないように一定の距離をあけました。馬車は間もなく駅で停まりました。切符売
場はごった返してたから、二人に近づいても気づかれる心配はありませんでした。ニュー
ブライトン行きの切符を買ってたんで、おれも同じようにして、二人が乗った車両の三つ
後ろの車両に座りました。現地に着くと、遊歩道を歩いてく二人のあとを百ヤード以上離
されないようにしてついていきました。やがて二人は貸しボートを借り、海へ漕こぎだし
ました。猛烈に暑い日だったんで、水上のほうが涼しいと思ったんでしょう。
そうなりゃもう、こっちのもんです。ちょうど海面には薄いもやがかかってて、視界は
せいぜい二百ヤードくらいしか利かない。おれも急いでボートを借りて、あとを追いかけ
ました。二人のボートはぼんやりと見えてたが、こっちに負けないくらいぐんぐん進んで
た。追いついたときには岸から一マイル以上離れてた。おれたち三人だけが、カーテンみ
たいなもやに取り囲まれてる。ああ、だめだ、どうしても忘れられない! 接近してくる
ボートに乗ってるのがおれだと気づいたときの、二人のあの顔を! メアリーは悲鳴をあ
げた。フェアベアンはおれの目に殺意を読み取ったんだろう、気がふれたようにわめき散
らし、オールで突こうとした。おれは攻撃をかわして、お返しにステッキで頭をかち割っ
てやった。卵みたいにぐしゃっとつぶれたよ。おれは完全に逆上してたが、それでもメア
リーにまで手をかけるつもりはなかったんだ。ところがあいつ、フェアベアンに泣きなが
らすがりついて、『アレック』と呼びやがった。おれは再びステッキを振りあげ、メア
リーはフェアベアンのそばに倒れこんだ。セアラがあそこにいたら、同じように始末して
ただろうよ。おれはもう血に飢えた野獣そのものだった。ナイフを抜いて──あとは言うま
でもないやね。セアラがあれを見れば、よけいなちょっかいを出すとどういうことになる
か、いやってほど思い知るだろう。それを想像したら、残忍な喜びが湧いてきたよ。
二人の死体はボートにくくりつけ、底板を一枚壊し、海中に沈むのを見届けた。貸し
ボート屋は二人がもやで方向を見失い、沖へ流されたと思うはずだ。おれは身繕いを整え
てから岸へ戻り、誰にも怪しまれずメイデイ号に戻った。その晩、セアラ・クッシング宛
ての小包をつくり、次の日にベルファストから発送した。
話はこれで終わりです。全部本当のことです。絞首台に送るなりなんなり、好きなよう
にしてください。今さらじたばたするつもりはないですよ。おれはもう死刑より恐ろしい
罰を受けてるんですから。目をつぶると、こっちをじっと見てる二人の顔が浮かぶんで
す。もやの中からおれのボートが現われるのを見たときの顔ですよ。おれはあいつらを一
瞬で殺したが、あいつらはおれをじわじわと殺してる。あと一晩これが続いたら、翌朝に
は狂ってるか死んでるかのどっちかです。どうか独房には入れないでください。一生のお
願いです。でないと、あんたも死ぬときに同じ苦しみを味わうことになりますよ」
「ワトスン、この事件にはどんな意味があるんだろうね」ホームズは厳しい口調で言い、
調書を置いた。「この悲嘆と暴力と恐怖の連鎖はいったいどこへ向かうんだろう? 必ず
行き着く先はあるはずだ。でないと世の中はすべて偶然によって支配されることになる。
そんなことは考えたくもないよ。だが終着点はどこだ? これは永遠に続く問いであり、
人間の理性は決して答えにたどり着けないんだろうね」