「これは失敬」客人は決まり悪そうに詫わびた。「ノックすべきでしたね。申し訳ありま
せん。気が動転していたものですから、ついうっかりしました。どうかご寛かん恕じよ
を」そう言ったあと、めまいでも起こしかけたのか額に手をあて、椅子に倒れこむように
座った。
「近頃、あまりよくお休みになれないようですね」ホームズが気さくな口調で穏やかに話
しかけた。「不眠は仕事や道楽以上に神経を消耗させますよ。さっそくご用件をうかがい
ましょう」
「どうか知恵をお貸しください。すっかりお手上げ状態なんです。人生を粉々に打ち砕か
れた気分です」
「探偵による調査をお望みなのですね?」
「いえ、それだけではなく、世故に通じた思慮分別のある方の意見を仰ぎたいのです。こ
れからいったいどうすればいいのか、あなたならきっと教えてくださるはずだ」
客人の声は途切れがちで、小さくほとばしるような調子だった。話すのが苦痛でしかた
なく、気力を振りしぼってなんとか耐え抜こうとしているらしい。
「とてもデリケートな問題なんです」青年は言った。「家庭内の事情を平気で他人に話せ
る者などいやしません。ましてや妻の行状を初対面のお二人に打ち明けるなんて、本当に
身のすくむ思いです。つらくてたまりません。でも、そうするしかないんです。もう限界
なんです。お願いですから助けてください」
「グラント・マンロウさん──」とホームズが言いかけた。
客人は椅子から飛びあがった。「ええっ! 名前をご存じなんですか?」
「知られたくなければ」ホームズは笑みをたたえている。「帽子の内側に名前を入れるの
はおやめになるか、目の前の相手には帽子の山のほうを向けるかなさったほうがいいです
よ。言いかけたことの続きですが、僕とここにいる友人はこれまで不可思議な秘密を数え
きれないほど耳にしてきましたし、幸いにも多くの悩める方々を窮地から救いだすことが
できました。きっとあなたのお力にもなれると思います。ですから、貴重な時間を無駄に
しないためにも、ただちに事情をご説明願えませんでしょうか?」
青年はそれでもまだ額に手をあて、苦しそうに悩んでいる。身振りや表情からすると、
無口でうちとけない性格のようだ。自尊心が強いため、痛手を他人にさらすのは我慢なら
ないのだろう。だがしばらくすると、迷いをかなぐり捨てるかのように拳こぶしを勢いよ
く振り下ろした。
「わかりました、ホームズさん。すっかりお話しします。ぼくには妻があり、結婚して三
年になります。これまでは互いにいたわり合い、世間のどんな夫婦にも劣らないほど楽し
く幸せに暮らしてきました。考え方や意見のずれで仲たがいしたことはただの一度もあり
ません。それなのに先だっての月曜日を境に、二人のあいだに大きな壁がたちはだかって
しまったのです。妻の人生にはなにか事情があって、どうやら心に重荷を抱えているよう
なのですが、それがなんなのかはさっぱり見当がつきません。自分の妻だというのに、道
ですれちがっただけの女となんら変わりない存在になってしまったのです。二人の仲を引
き裂いたのがいったいなんなのか、どうしても突きとめたい。
ホームズさん、先を続ける前にこれだけは言っておきます。妻はぼくを愛しています。
どうかそこは誤解なさらないでください。エフィはぼくに真しん摯しな愛情を抱いてい
て、それは今も薄れるどころか、ますます強くなっています。勘でわかるんです。誰がな
んと言おうと、絶対にまちがいありません。女に愛されていれば、男は敏感に察するもの
です。でもこんなふうに秘密に割りこまれてしまっては、これまでどおりの二人ではいら
れません。秘密をぬぐい去らないかぎり、決してもとには戻れないでしょう」
「マンロウさん、早く本題に入ってもらえませんか?」ホームズはしびれを切らした様子
だった。
「ではエフィの身の上について、わかっている範囲でお話しします。初めて会ったとき、
エフィはまだ二十五歳という若さにもかかわらず、未亡人でした。当時はヘブロン夫人と
名乗っていました。若い頃アメリカへ渡ってアトランタに住み、羽振りのいい弁護士のヘ
ブロンと結婚したのです。子供も一人いましたが、黄熱病が町で猛威をふるい、夫も子供
も亡くなりました。夫の死亡診断書を見せてもらったことがあります。つらくてアメリカ
にいられなくなったエフィは、イギリスへ戻って、ミドルセックスのピナーで未婚の伯母
おばと暮らすことになりました。前夫は生活に困らないだけの遺産を遺のこしていて、お
よそ四千五百ポンドの資産と、それを当人がうまく投資して得た平均七パーセントの利子
がエフィのもとに入りました。ぼくらが出会ったのは、エフィがピナーに来てわずか半年
後のことでした。互いに好きになって、数週間後に結婚しました。
ぼくはホップ商で、年収は七、八百ポンドにもなりますので、生活にはゆとりがありま
す。そこで、ノーベリに別荘風のしゃれた一戸建てを年八十ポンドで借りました。ノーベ
リは都会に近いわりにはひなびた場所です。うちから少し離れたところに宿屋が一軒と民
家が二軒、それから向かいの原っぱの奥に小さなコテージがぽつんと建っているほかは、
駅へ行く道の半分まで人家は一軒もありません。商売柄、季節によってはロンドンへ出か
けることが多いのですが、夏はあまり忙しくないので、ノーベリの田舎家で夫婦水入らず
の生活を送っていました。こういう厭いとわしい事態に陥るまで、家庭内には不安の影な
どこれっぽっちもなかったのです。
ここで、ひとつお伝えしたいことがあります。結婚するとき、妻は全財産をぼくに譲り
渡しました。反対はしたんですがね。ホップの商売が傾いたりすれば、ややこしいことに
なりかねませんから。でも妻がどうしてもと言うので、そのように手配しました。ところ
が、一カ月半ほど前、妻がいきなりこう言いだしたのです。
『ジャック、わたしのお金を受け取るとき、必要になったらいつでも渡すよと言ってくれ
たわね』
『もちろんだよ。もともときみのお金なんだから』
『実はね、百ポンドいるの』
そう聞いて、少し驚きました。新しいドレスを買う程度の金額だろうと思っていたから
です。
『いったい、なにに使うんだい?』
ぼくの問いかけに、妻はいつもの朗らかな声でこう言いました。『あら、自分はただの
銀行代わりだって言ってたじゃないの。銀行は普通、そんな質問はしないでしょう?』
『本当に必要なら渡すよ』
『本当に必要なの』
『だけど使い途みちは言いたくないんだね?』
『いつか話すわ。でも今は無理なのよ、ジャック』
それまではお互い隠し事はいっさいしなかったのですが、妻がそこまで言うのであれ
ば、引き下がるしかありません。小切手を書いて本人に渡し、それ以上なにも考えないこ
とにしました。これは今回の件とは関係ないかもしれませんが、一応お伝えしたほうがい
いかと思いまして。