先ほど、近所にコテージが一軒あるとお話ししました。我が家とのあいだには原っぱし
かありませんが、そこへ行くには街道を少し先へ進んでから脇の小道へ入らなければなり
ません。コテージの裏手には気持ちのいい樅もみの林があって、ぼくは前からよく散歩に
行っていました。樹木というのはいつ見ても親しみが湧きますからね。コテージは八カ月
間ずっと空き家で、つねづねもったいないと思っていました。スイカズラをあしらった古
風な玄関ポーチのある、二階建てのきれいな家です。何度となく足を止めては、こぢんま
りしていて、さぞかし住み心地がいいだろうなと思いをめぐらせたものです。
すると先日の月曜の夕方、いつものように散歩をしていたら、コテージの近くの小道で
空っぽの馬車と行き交いました。コテージの玄関脇の芝生に絨じゆう毯たんや家具が積ん
であったので、ようやく借り手がついたのだとわかりました。そこで通りがかりにちょっ
と足を止め、どんな人が引っ越してきたんだろうと思いながら、さりげなく建物全体を見
渡しました。そのとき、二階の窓からこっちをじっと見下ろしている顔に気づいたので
す。
一瞬、背筋がぞっとしました。でもホームズさん、その顔のどこにぞっとしたのかはわ
からないんです。少し距離がありましたから、顔立ちまでははっきり見えませんでした
が、どことなく不気味で、血が通っていないような印象を受けたんです。近くで確かめよ
うと歩み寄ったとたん、顔はふっと消えてしまいました。あまりのすばやさに、部屋の暗
闇へ吸いこまれたのかと思ったほどです。
五分くらいその場に立ちつくしたまま、今見たものを思い返して、じっくり考えてみま
した。それでも、あの顔が男なのか女なのかさえわかりません。なにより鮮明に記憶に
残ったのは顔色です。死人のような土気色を帯びた黄色だったのです。しかも、薄気味悪
いほど固くこわばった感じでした。無性に気になったので、こうなったら新しい住人に
会ってみるしかないと思い、玄関へ行ってノックしました。ドアはすぐに開いて、無愛想
で険しい顔つきの、ぎすぎすに瘦やせた背の高い女が出てきました。
『なんの用ですかね?』女の言葉には北部訛なまりがありました。
『近くに住んでいる者ですが』と言って、ぼくは自分の家のほうへうなずいて見せまし
た。『引っ越していらしたばかりのようなので、なにかお役に立てることがあれば──』
『あればこちらからお願いに上がりますんで』女はそう言うなり、はねつけるようにドア
をばたんと閉めました。失礼千万とはこのことです。ぼくは腹が立ったのでさっさとそこ
を離れ、家に帰りました。
その晩は、どんなにほかのことで気を紛らそうとしても、窓からのぞいていた得体の知
れない顔とつっけんどんな女のことが、頭から離れませんでした。でも窓の顔のことは妻
には黙っていることにしました。あれは神経質なところがあって、細かいことを気にする
性分なので、ぼくの不快な気分をわざわざ一緒に背負いこませることはないと思ったので
す。一応、コテージに新しい住人が来たことは寝る前に話しましたが、妻は特になにも言
いませんでした。
ぼくはもともとぐっすり眠れるたちで、夜中になにが起ころうと決して目を覚まさない
だろうねと、よく家族にからかわれたものです。ところが、その晩にかぎっては、夕方の
出来事で少し興奮していたせいか普段よりも眠りが浅く、夢うつつの状態でした。そのう
ちに、室内でなにかがうごめく気配をおぼろげに感じました。徐々に意識がはっきりして
くると、服に着替えた妻がマントをはおり、ボンネットをかぶっているのが見えます。ぼ
くは寝ぼけまなこで、こんな時間にどうしたんだ、だめじゃないかと寝言まじりにつぶや
きましたが、ろうそくの火に照らされた妻の顔が目に入った瞬間、あわてて口をつぐみま
した。それまで一度も見たことのない表情だったのです。妻がまさかそんな顔をするとは
想像もつきませんでした。死人さながらに青ざめて息をはずませ、マントの紐ひもを結ん
でいるあいだも、ぼくが目を覚ましたのではないかとベッドのほうを不安げにちらちらう
かがっているのです。
やがて、ぼくが眠っているように見えたので安心したのでしょう、妻はそっと部屋を抜
けだしました。続いて聞こえたのは金属音でした。玄関のドアの蝶ちよう番つがいがきし
んだ音にちがいありません。ぼくは起きあがって握り拳こぶしでベッドの手すりを叩たた
き、夢ではないことを確かめました。枕の下から時計を出すと、午前三時を指していまし
た。そんな時刻に、いったいなんの用事で田舎道へなど出ていくのでしょう?
ベッドに起きあがったまま二十分ほど考えこんで、つじつまが合う理由を探しました。
でも考えれば考えるほど、尋常ならざる奇妙な事態としか思えません。わけがわからず呆
ぼう然ぜんとしていたところへ、再び玄関の閉まる音がして、妻が階段を上がってくる足
音が聞こえました。
『エフィ、いったいどこへ行っていたんだ?』妻が部屋へ入ってくるなり尋ねました。
妻はぎょっとして、ひきつった声を漏らしました。その驚きようがいかにも後ろめたそ
うだったので、ぼくは激しい不安に駆られました。隠しだてなどしたことのない正直な妻
が、部屋にこっそり戻ってきたうえ、夫に声をかけられただけで悲鳴をあげるなんて、見
ているこっちがぞっとします。
『起きたの、ジャック?』妻はこわばった笑顔で言いました。『珍しいのね、普段はいっ
たん寝たら目を覚まさない人なのに』
『どこへ行ってた?』さっきよりもきつい口調で訊ききました。
『驚いたでしょう。無理もないわ』マントの紐をほどく妻の指がぶるぶる震えています。
『わたしもこんなことをしたのは生まれて初めてなのよ。なんだか急に息が詰まって、ど
うしても新鮮な空気を吸いたくなったの。外へ出ないと苦しくて気を失いそうだったの
よ。でもドアを出たところでしばらく立っていたら、だいぶ気分がよくなったわ』
そう話しているあいだ、一度もこっちを見ようとしませんし、声の調子も普段と全然ち
がっていました。でたらめを言っているのは明らかです。ぼくは返事をせず、黙って壁の
ほうを向きました。不信感やら猜さい疑ぎ心しんやらが毒気のように胸をふさいで、気分
が悪くなるほどでした。妻はいったいなにを隠しているんだ? こんな時刻にこそこそと
家を出て、いったいどこへ行っていたんだ? それがわかるまで心は決して安まらないと
わかっていましたが、あからさまな噓をつかれたあとでは、さすがに問いただす気にはな
れませんでした。その晩は悶もん々もんとして何度も寝返りを打ちながら、ばかげた妄想
を次から次へと追いかけ、ますます泥沼に沈んでいきました。
翌朝はロンドンへ出かける予定でしたが、頭が混乱してとても仕事どころではありませ
ん。妻のほうも動揺している様子で、絶えず探るような視線を投げてよこします。言い訳
を信じてもらえなかったのだと察して、どうすればいいのか悩んでいたのでしょう。ほと
んど会話のないまま朝食が終わると、ぼくはすぐに散歩に出かけました。朝の新鮮な空気
を吸って、頭の中を整理しようと思ったのです。
クリスタル・パレスまで足を延ばし、その庭園で一時間ほど過ごしたあと、午後一時頃
にノーベリに戻ってきました。たまたまコテージの前を通りかかったので、足を止め、前
日の奇妙な顔がまた現われないかと窓を見上げました。するとホームズさん、とんでもな
いことが起こりました。表のドアがいきなり開いたかと思うと、そこから妻が現われたの
です!