ぼくは啞あ然ぜんとしましたが、目が合った瞬間に妻の顔に浮かんだ驚きはもっとそれ
以上でした。とっさに家の中へ戻ろうとしたあとで、今さら隠れても遅いと悟ったのか、
そのまま外へ出てきました。笑みを浮かべてはいますが、顔は蒼そう白はくで、おびえ
きった目をしています。
『あら、ジャック! 新しいご近所の方にお手伝いできることはないか、うかがったとこ
ろなのよ。どうしたの、そんな顔をして。なにか気にさわったの?』
『ということは、昨夜もここへ来たんだな?』
『なんのこと?』
『来たんだろう。ぼくにはわかってる。あんな時間に会いにいくとは、いったいどういう
相手なんだ?』
『ここには来てないわ』
『なぜ見えすいた噓をつくんだ』ぼくは厳しく問い詰めました。『声がいつもとまるでち
がうじゃないか。ぼくはきみに隠し事をした覚えは一度もないぞ。こうなったら家の中へ
入って、徹底的に調べさせてもらう』
『だめよ、ジャック、お願いだからやめて!』妻は激しくうろたえ、あえぎながら懇願し
ました。ぼくがドアへ近づくと、袖そでをつかんで懸命に引き止めます。
『ジャック、どうかそれだけはやめて。いつか必ず打ち明けるわ。包み隠さず、なにもか
も。だから早まったことはしないで。あなたがこの家に入ったら、取り返しのつかないこ
とになるのよ』振りきろうとしても、妻は死に物狂いですがりついてきます。
『わたしを信じて、ジャック! 一生のお願い。これはあなたのためでもあるの。そうで
なかったら隠し事なんかしないわ。どうか今の幸せを壊さないで。あなたが無理やりこの
家へ入ったりしたら、わたしたちはおしまいなのよ』
切々と訴える妻の態度には鬼気迫るものがあったので、ぼくは気け圧おされてドアの前
から動けませんでした。
『信じるにはひとつ条件がある。それだけは絶対に守ってもらう』しかたなく折れまし
た。『いいか、隠し事はこれきりだ。秘密にしたいなら好きにすればいい。だが夜中に
こっそり出かけたり、ぼくの目を盗んで行動するようなまねは二度としないでくれ。それ
が約束できるなら、過ぎたことは水に流そう』
『信じてくれるのね。よかったわ』妻はほっとした様子で深いため息をつきました。『あ
なたの言うとおりにするわ。さあ、行きましょう。家へ帰りましょう』
妻は袖をつかんだままぼくを急せかし、コテージから一刻も早く離れようとします。ぼ
くは歩きだしかけて、後ろをちらりと振り返りました。すると二階の窓から、また黄色い
不気味な顔がのぞいていました。あの得体の知れない生き物と妻のあいだに、どんなつな
がりがあるんだろう? 前日見かけた無愛想な女は、妻とどういう関係なんだろう? 不
可解きわまりない謎ですが、それを解明しないかぎり安心して暮らすことはできないだろ
うと思いました。
それから二日間はずっと自宅で過ごしましたが、妻は約束をきちんと守っているよう
で、ぼくの知るかぎりでは家から一歩も出ませんでした。ところが三日後、そんな約束な
ど、この秘密が妻に及ぼす影響力の前ではなんの意味もなかったという事実を目の当たり
にしました。夫の存在や妻としての務めさえも、エフィをつなぎ止めることはできないん
だと思い知らされたのです。
その日、ぼくはロンドンに出かけましたが、いつも乗る三時三十六分ではなく、二時四
十分の列車で戻りました。帰宅すると、メイドが慌てふためいて玄関に出てきました。
『妻は?』
『お散歩にお出かけだと思います』
たちまち疑念が沸き起こりました。急いで二階へ上がり、本当にいないのかどうか確か
めようと妻を捜しました。その途中、ふと窓の外を見ると、ついさっき妻は散歩に出てい
ると答えたメイドが、例のコテージへ向かって原っぱを小走りに横切っていくではありま
せんか。そうか、そういうことだったのか、と腑ふに落ちました。妻はあの家へ行ってい
て、ぼくが戻ったら呼びにくるようメイドに指示しておいたのです。ぼくは怒りにわなわ
な震えながら、今度こそ決着をつけてやろうと、原っぱを突き進んでいきました。途中で
妻とメイドが小道を駆け戻ってくるのに気づきましたが、脇目もふらずまっしぐらに歩き
続けました。ぼくの生活に影のようにつきまとう秘密が、あのコテージの中に隠されてい
る。それがなんであれ、絶対に暴いてやると覚悟を決めていました。玄関にたどり着く
と、ノックもせずにドアを開け、中へ飛びこみました。
一階はしんと静まり返っていました。台所では火にかけたままのケトルがシューシュー
鳴り、バスケットの中では大きな黒猫が丸まっています。でも前に会った女の姿はどこに
もありません。残りのもうひとつの部屋にも誰もいませんでした。すぐに二階へ上がりま
したが、やはり二部屋とも空っぽで、がらんとしています。家具や壁の絵はつまらないあ
りふれたものばかりでしたが、窓から奇怪な顔がのぞいていた部屋だけは別でした。優雅
な雰囲気にまとめられ、見るからに居心地がよさそうです。しかも暖炉の上には、妻の全
身写真が飾られていました。三カ月前にぼくの希望で撮影したものです。疑惑はめらめら
と燃えあがり、獰どう猛もうな炎を噴きだしました。
家の中を隅々まで調べまわった結果、完全にもぬけの殻でした。ぼくはそれまで味わっ
たことのない暗澹たる気分でコテージをあとにしました。帰宅すると、妻が玄関ホールで
出迎えましたが、深く傷つくと同時に激しい憤りを抱えていたぼくはとても口をきく気に
なれず、妻を押しのけるようにして書斎へ向かいました。妻があとを追ってきて、ドアが
閉まるより先に中へすべりこみました。
『ごめんなさい、約束を破ってしまって。でも事情がわかれば、きっと許してくれるはず
だわ』
『だったら、洗いざらい話したらどうだ』
『それはできないのよ、ジャック。無理なの!』妻は悲痛な声をあげました。
『コテージに住んでいるのは誰なのか、きみがあの写真を渡した相手はどんな人物なの
か、きっちり説明してもらうまでぼくらのあいだに信頼関係など成り立つわけない』
そう言い放つと、妻の手を邪険に振りはらって家を飛びだしました。それが昨日のこと
なんです、ホームズさん。以来、妻には会っていませんし、この不可解な出来事について
もなにひとつわからないままです。夫婦仲に亀き裂れつが生じたのはこれが初めてのこと
なので、途方に暮れてしまい、八方ふさがりの状態でした。今朝になって急に、そうだ、
あなたなら妙案を授けてくれるかもしれないと思い、急いで駆けつけた次第です。こう
なったら恥も外聞もなく、すべてをさらけだすしかありません。ぼくの話でわかりにく
かった点があれば、なんなりとご質問ください。こんな苦しい思いにはもう耐えられませ
ん。どうか一刻も早く、解決に導いてください」
青年が感情を高ぶらせて息も絶え絶えに語っているあいだ、ホームズも私もその風変わ
りな話にすっかり心を奪われ、真剣に聞き入っていた。話が終わると、ホームズは頰ほお
杖づえをついて物思いにふけったが、しばらくしてからおもむろにこう尋ねた。