『景色をお楽しみいただけなくて恐縮ですな、メラスさん』とラティマーは言いました。
『実を言いますとね、行き先をあなたに知られたくないんですよ。あとでまた押しかけて
こられると、当方としてはちと迷惑なものですから』
ご想像がつくでしょうが、相手がいきなり物騒なことを言いだしたので、わたしは慌て
ふためきました。ラティマーは肩幅の広い、見るからに屈強そうな男です。武器のあるな
しに関わらず、取っ組み合いになったら、こっちに勝ち目はありません。
『ずいぶんと失敬なふるまいですね、ラティマーさん』わたしは口ごもりながら言いまし
た。『あなたのなさっていることは完全な不法行為ですよ』
『まあ、いささか無作法とは存じますが、埋め合わせは充分させていただきますから。た
だし、メラスさん、あらかじめ警告しておきます。大きな声を出したり、わたしに逆らっ
たりしたら、取り返しのつかないことになりますよ。あんたが今夜どこにいるかは誰も知
らないんだってことをどうかお忘れなく。この馬車の中でも家に入ってからも、わたしは
あんたを好きなように料理できるんですからね』
淡々としていますが、ひどく神経にさわるしゃべり方で、言っていることは明らかに脅
迫です。わたしは黙ってじっとしたまま、いったいなんの理由があって、わたしをこんな
やり方で連れ去るんだろうと考えていました。しかしどんな理由であれ、抵抗しても無駄
だという状況に変わりはありません。黙ってなりゆきを見守るしかありませんでした。
どこを通っているのかまるで見当がつかないまま、馬車は二時間近く走り続けました。
敷石の道を走っているらしく車輪がガラガラ鳴ることもあれば、アスファルトの道なのか
音もなくなめらかに進んでいたこともありましたが、そうした音のちがいは聞き分けられ
ても、どの地点を走っているのかは皆目わかりませんでした。両側の窓は紙に覆われてい
て光すら通しませんし、前の窓ガラスにも青いカーテンが下がっています。ペルメル街を
出たのは七時十五分でした。ようやく馬車が止まったとき、わたしの時計は九時十分前を
指していました。ラティマーが窓を引き下ろしたので、ランプが上にぽつんとともってい
る低いアーチ形の玄関が見えました。急せきたてられて馬車から下りると、玄関のドアが
勢いよく開き、あっという間に中へ押しこまれましたが、玄関の両脇に芝生と木立があっ
たのをぼんやり覚えています。ですがそれが民家の庭だったのか、田舎の野原だったのか
は、はっきり申しあげられません。
家の中は色つきのガスランプがともされていましたが、炎を細くしぼってあったので、
わりと大きなホールに絵がいくつかかかっていることくらいしかわかりませんでした。そ
の薄暗い中、さっきドアを開けた人物の姿が見えました。小柄で下品な顔つきをした猫背
の中年男です。こっちを振り返ったときに光がきらっと反射したので、眼鏡をかけている
のだとわかりました。
『この人がメラスさんか、ハロルド?』その男が言いました。
『ええ』
『よし、よくやった! ご苦労さん! メラスさん、どうか恨まんでくださいよ。あんた
に来てもらわんと、こっちとしちゃ話が始まらんのでね。ちゃんと務めを果たしてくれ
りゃ、悪いようにはしません。だが、ちょっとでも妙なまねをしたら、どうなるかわかり
ませんぞ!』
男のしゃべり方は落ち着きがなく、切れ切れで、言葉の合間にヒヒッという引きつった
笑い声がはさまります。ラティマーよりもこの男のほうがなんともいえず不気味でした。
『わたしになにをさせるつもりです?』
『うちにいるギリシャ人の客にちょっとばかり質問して、その返事を通訳してもらいたい
んですよ。ただそれだけのことです。ただし、よけいなことを一言でもしゃべったら──』
ここでまたヒヒッと笑いました。『生まれてきたことを後悔するような目に遭いますぞ』
男はそう言いながらドアを開け、わたしをぜいたくな調度の部屋へ通しました。しかし
そこも暗くしたランプがひとつあるだけでした。室内はかなりの広さで、踏んだときに足
が深く沈みこんだので、床の絨じゆう毯たんは分厚くて密に織られた高級品でしょう。ビ
ロード張りの椅子と、高さのある白大理石のマントルピース、それからその脇に日本の鎧
よろい甲かぶとらしき物が見えました。
ランプの真下に椅子が置いてあり、さっきの中年男がわたしにそこへ座れと身振りで示
しました。ラティマーと名乗った若いほうはどこかへ消えていましたが、突然別のドアか
ら姿を現わし、ゆったりとしたガウンのようなものを着た紳士を連れてきました。その人
がランプの薄明かりの輪に入り、顔を照らされた瞬間、わたしは恐怖に凍りつきました。
顔は瘦やせこけて死人のように青ざめ、ぎらぎらした両目が飛びださんばかりです。体力
を消耗しきって、気力だけでどうにか持ちこたえているようでした。けれどもその衰弱ぶ
りよりさらにぞっとしたのは、顔中にべたべたと貼られた絆創膏です。口も大きな絆創膏
でふさがれていました。その奇怪な男は椅子に崩れ落ちるように座りました。
『石版を持ってきたか、ハロルド?』年かさの男が言いました。『両手のロープはゆるめ
てあるだろうな? よし、じゃあ石筆を持たせろ。メラスさん、あんたが質問したら、こ
の男が石板に答えを書きます。最初はこうです。例の書類に署名する気はあるのか?』
絆創膏の男の目がかっと燃えあがりました。
『するものか』男は石板にギリシャ語で書きました。
『いかなる条件でも?』わたしは暴君さながらの中年男に命じられるまま、質問しまし
た。
『彼女がわたしの立ち会いのもとで、わたしの知っているギリシャ人神父の手で結婚式を
挙げるならば。それ以外の条件は認めない』
暴君は毒気たっぷりにヒヒッと笑いました。
『自分がどうなるかわかってるんだろうな?』
『どうなろうとかまわない』
こんな具合に、わたしが口頭で質問すると、相手は筆談で答えるというやりとりが続き
ました。いいかげんあきらめて書類に署名したらどうか、という質問が何度も繰り返させ
られ、そのたびに憤然とした拒絶が返ってきました。そのうち、いい考えが浮かびまし
た。質問にわたしの短い文章をくっつけてみてはどうかと思ったのです。初めは無難な言
葉で試しました。二人の男が気づいた様子はありませんでした。そこでもっと大胆に思い
きった言葉でやってみました。そのときの会話はこのようなものでした。
『いつまでも強情を張ってると、ためにならないぞ。アナタハ誰デスカ?』
『かまうものか。外国カラ来タ者デス』
『このままだとおまえはおしまいだぞ。イツカラココニ?』
『勝手にしろ。三シュウカン前カラ』
『財産はいずれこっちのものになるんだぞ。ナニガアッタノデスカ?』
『悪党どもには渡さない。餓死サセラレソウダ』
『署名さえすれば自由になれるんだぞ。ココハドコデスカ?』
『絶対に署名しない。ワカリマセン』
『彼女も署名してもらいたがってるぞ。アナタノ名前ハ?』
『本人に会ってじかに聞くまで信じない。クラティデス』
『署名すれば会わせてやる。ドコカラキタノデスカ?』
『だったら会うことはないだろう。アテネ』