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ギリシャ語通訳(6)
日期:2024-02-13 08:41  点击:262

「なぜわかるんです?」

「重い荷物を積んだ馬車がこの一時間のうちに家から出ていったからです」

 警部は笑った。「地面に轍わだちがついているのは門灯の明かりで見えましたが、重い

荷物だというのはどこから判断したんですか?」

「同じ車輪の跡が逆方向にもあったでしょう。外へ出ていったほうが深かったので、荷物

を大量に載せていたことは明らかですよ」

「なるほど。一本取られましたよ」警部はそう言って肩をすくめた。「このドアを破るの

は大変そうだな。まずは中に誰かいるかどうか確認しましょう」

 警部はドアのノッカーを大きく打ち鳴らし、呼び鈴の紐ひもを引いたが、なんの応答も

なかった。気がつくとホームズがどこかへ消えていたが、間もなく戻ってきた。

「窓を開けてきた」

「ホームズさん、ほっとしましたよ。あなたが警察の敵ではなく味方で」警部は器用にこ

じ開けられた窓の掛け金を見て言った。「さて、こういう状況ですから、入ってもいいと

言われなくても入るしかありませんな」

 一人ずつ順番に窓から大きな部屋へ入った。どうやらそこがメラス氏が通訳をやらされ

た部屋のようだった。警部が用意した手提げランプの明かりで、ふたつのドア、カーテ

ン、ランプ、日本の鎧よろい甲かぶとなど、話に出てきたとおりのものが見えた。テーブ

ルの上にはグラスが二個とブランデーの空き瓶が一本、それから食事の残りがのってい

る。

「なんだ、あれは?」ホームズが唐突に言った。

 全員でじっとして耳を澄ますと、低いうめき声のような音が頭上から聞こえてきた。

ホームズはドアに飛びつき、廊下へ走りでた。不気味な音は上の階から聞こえてくる。

ホームズが階段を駆けあがり、警部と私もすぐあとに続いた。マイクロフトもやや遅れて

巨体を揺すりながら精一杯の速さでついて来た。

 二階には三つのドアが並んでいた。不吉な音が漏れているのは真ん中の扉で、くぐもっ

た低い音がときおり甲高い引きつった音に変わる。ドアは施錠されていたが、外側から鍵

かぎが差したままだ。ホームズは急いでドアを開けて中へ入ったが、すぐに喉のどを手で

押さえながら飛びだしてきた。

「木炭ガスだ!」彼は叫んだ。「少し待とう。じきに薄くなる」

 戸口からのぞきこむと、室内の明かりは中央に置かれた火鉢でちろちろと燃える鈍く青

い炎だけだった。その炎が床に青白い不気味な光の輪を投げかけ、その奥の暗がりに、壁

際にうずくまっている二人の人間がぼんやりと見えた。開いたドアから流れでてくる恐ろ

しい有毒ガスのせいで、私たちは喉を詰まらせたり咳せきこんだりし始めた。ホームズは

いったん階段のほうへ戻って、きれいな空気を吸うと、もう一度部屋へ駆けこんで窓を開

け放ち、火鉢を庭へ放り投げた。

「もうじき中へ入れる」再び廊下に飛びだしてきたホームズが、あえぎながら言った。

「ろうそくはどこだ? いや、あの空気の中じゃマッチを擦るわけにはいかないな。兄さ

ん、戸口からランプを照らしてくれないか。みんなで二人を部屋から運びだそう。さあ、

行くぞ!」

 私たちはガス中毒で倒れた男たちに駆け寄り、すばやく部屋から出して階段の近くまで

引きずっていった。二人とも意識不明で唇が真っ青だ。顔は腫はれあがって充血し、目が

飛びだしている。顔のゆがみようがひどい。黒い顎あごひげとずんぐりした体型を頼り

に、一人はディオゲネスクラブでほんの数時間前に別れたばかりのギリシャ語通訳だと

かろうじて見分けることができた。手足を縛られて、片目に殴られた痣あざがある。もう

一人の男も手足を縛られていた。長身で瘦やせ細っており、顔中に貼られた絆ばん創そう

膏こうがなんとも薄気味悪い。床に横たえたとき、すでに男のうめき声は絶えていて、間

に合わなかったのだとわかった。だがメラス氏のほうはまだ息があり、アンモニアを嗅か

がせたりブランデーを飲ませたりして介抱すると、嬉うれしいことに一時間もしないうち

に目を開けた。誰もがいつかは通らなければならない暗黒の谷から、なんとか引きずり戻

すことができたのだ。

 メラス氏が語った話はしごく単純なもので、私たちの推論を裏付けたにすぎなかった。

自宅を訪ねてきた男が袖そで口ぐちから鉛を詰めたステッキを引き抜き、抵抗するとこの

場で殴り殺すぞと脅しつけ、メラス氏を再び連れ去ったのである。あの不気味な笑い方を

する悪党にすっかり魅入られたらしく、その男の話をするだけでメラス氏は真っ青になっ

て手を震わせた。ベクナムに着くなり、またしても通訳をやらされたが、今度はまさしく

修羅場だった。二人のイギリス人は哀れなギリシャ人を、要求に従わなければ今すぐ殺し

てやると脅迫し、相手がどうしても屈しないとわかると、再び部屋に閉じこめた。さらに

新聞広告のことでメラス氏を裏切り者となじって、ステッキで殴りつけた。メラス氏はそ

こで気を失い、そのあとのことはまったく記憶がないそうだ。気がついたら、私たちが上

からのぞきこんでいたのだという。

 これがギリシャ語通訳をめぐる特異な事件のあらましだが、いまだに謎に包まれている

部分も実は残っている。新聞広告に返事をくれた紳士からの情報により、あの不幸な娘は

ギリシャの裕福な一族の生まれで、友人を訪ねてイギリスに来ていたのだとわかった。と

ころが彼女はハロルドラティマーという青年と出会って、すっかり丸めこまれ、とうと

う駆け落ちを承諾してしまった。友人たちはこれに驚き、アテネにいる娘の兄に事情を知

らせたものの、関わりたくないので遠ざかっていった。しかも兄のパウロスはイギリスに

着くなり、うかつにもラティマー一味の手中に落ちてしまった。ラティマーの例の相棒は

ウィルスンケンプという札付きの悪党である。二人は英語が話せない無力なパウロスを

監禁し、彼と妹の財産を放棄させようとさんざん痛めつけ、餓死寸前にまで追いこんだ。

もちろん同じ家に住んでいる妹のソフィーには気づかれないようにしたが、万一見られた

ときの用心に、パウロスの顔に人相がわからなくなるほど絆創膏を貼っておいた。だがメ

ラス氏が最初にあの家へ行った際に目撃したとおり、ソフィーは女の直感から一目で兄と

見抜いた。そして今度は彼女も囚とらわれの身になってしまった。あの家のまわりには悪

党どもの手下になっている御者夫婦しかいなかったからである。悪だくみが露見し、パウ

ロスを命令に従わせることができないとわかるや、連中はソフィーを連れて、家具付きで

借りていた家から即刻逃げだした。出ていく前に、自分たちに逆らった者と裏切った者に

ああいう報復をおこなったのである。

 それから何カ月も経って、ブダペストから奇妙な新聞の切り抜きが私たちのもとに届い

た。女性を連れて旅行中だった二人のイギリス人男性が悲惨な死を遂げたという記事だっ

た。二人とも刃物で刺し殺されており、ハンガリー警察はけんかの末に刺しちがえたのだ

ろうとの見解だった。しかしホームズはどうやら別の考えのようだ。あのギリシャ人の娘

を捜しだせば、むごい仕打ちを受けた彼女とその兄の恨みがどのように晴らされたか、事

の真相を聞けるだろうと今もって信じているのである。



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