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海軍条約文書(1)
日期:2024-02-13 08:43  点击:273

海軍条約文書

 私が結婚して間もなくの七月は、思い出に残る月となった。興味深い事件が三つも起こ

り、光栄なことにそのいずれでも友人シャーロックホームズと行動をともにして、彼の

探偵術をつぶさに観察させてもらったのだ。それらの事件は《第二の血けつ痕こん》、

《海軍条約文書》、《疲れた船長》という表題で私の記録におさめてある。

 ただ、最初の事件はきわめて重大な利害関係がからんでいるうえ、我が国の名門一族が

いくつも関係しているため、公表できるのはまだずっと先になるだろう。この事件では、

ホームズお得意の分析的手法がほかのどの事件よりも鮮やかに真価を発揮し、関係者に深

い感銘を与えた。ホームズがパリ警察のデュビュク氏とダンツィヒの有名な探偵フリッ

フォンヴァルトバウムの前で事件の全容を解き明かしたときの模様は、一言も漏ら

さず記録してある。捜査にはその二人もあたったが、些さ末まつな事柄に足をすくわれて

無駄骨に終わったのだった。それはともかく、この事件についておおっぴらに語れるのは

新しい世紀を迎えてからになりそうだ。よって、今回取りあげるのはふたつめの事件にす

るが、実はこれも一時は国家の一大事につながりかねなかった。いくつかの点で独特の性

質をそなえている。

 学校に通っていた頃、私はパーシーフェルプスと親しかった。年齢は同じだが、級は

私よりふたつ上という頭脳明めい晰せきな少年で、学校ではさまざまな賞を総なめにし

た。仕上げに卒業時は奨学金をもらってケンブリッジへ進学し、さらに輝かしい学歴を重

ね続けた。血縁関係にも恵まれていて、母方の伯父が保守党の大物政治家、ホールドハー

スト卿きようだということは、まだ少年だった私たちでさえ知っていた。もっとも、学校

では偉い親しん戚せきがいてもあまり強みにならない。それどころか、いつも私たちに運

動場で追いまわされたり、クリケットの棒で向こうずねを叩たたかれたりと、さんざんか

らかわれていた。だが社会に出れば話は別だ。持ち前の能力と縁故が物を言い、外務省で

高い地位についていると風の便りに聞いた。そしてそれっきりフェルプスのことは忘れて

いた。本人からいきなりこんな手紙が舞いこんできて、久しぶりに思い出したのだった。

 ウォーキング、ブライアブレイ荘にて

 拝啓 ワトスン君

 きみが三年生のときに五年生だった、〝おたまじゃくしフェルプスのことは覚えてい

らっしゃいますね。ぼくが伯お父じのつてで外務省で有利な職を得ていることもすでにご

存じかと思います。ところが今、責任と名誉ある地位を脅かす恐ろしい不運に見舞われ、

これまでの経歴がいっぺんに崩れそうになっているのです。

 その不運について、ここで詳しく述べても始まりません。きみがぼくの願いを聞き入れ

てくれたら、そのときにじっくりお話しします。実は二カ月以上前から脳炎を患ってい

て、まだ病みあがりの状態です。どうかご友人のシャーロックホームズさんと一緒に、

こちらへお越し願えないでしょうか? 警察はもう万策尽きたと言っていますが、ホーム

ズさんのご意見をぜひともうかがいたいのです。どうか一刻も早くホームズさんを連れて

きてください。このような宙ぶらりんの状態では不安が増すばかりで、一分が一時間に感

じられます。今頃になってホームズさんに相談することにしたのは、決して才能を軽んじ

ていたからではありません。災難の衝撃に打ちのめされて、頭が混乱していたからです。

このことをどうかご本人にしっかりとお伝えください。幸い、今はもう頭がはっきりして

います。といっても、病気がぶり返すといけないので、事件のことはなるべく考えないよ

うにしていますが。身体がまだ衰弱しているため口述筆記の手紙となりました。どうか

ホームズさんをお連れくださいますよう、くれぐれもお願いいたします。

昔の学友 パーシーフェルプス

 心を動かされる手紙だった。ホームズを連れてきてほしいと繰り返し懇願しているの

が、なんとも哀れである。気の毒でたまらず、どんな難しい頼み事でもなんとか応じてや

りたかった。問題はホームズだが、探偵業に心底惚ほれこんでいるから、助けを求める相

手がいれば進んで手を差し伸べるはずだ。となれば、速やかに事情を伝えにいったほうが

いい。妻も私の意見に賛成してくれたので、朝食が済むと一時間もしないうちにベイカー

街の懐かしの部屋を訪ねた。

 ホームズはガウン姿のままサイドテーブルの前に座り、化学の実験に没頭していた。大

きな球形のガラスの蒸留器がブンゼンバーナーの青みがかった炎の上で沸騰し、蒸留液

が管を伝わって二リットル計量容器へ送られていく。私が部屋に入っていっても顔を上げ

ないので、よほど重大なことを調べているのだろう。終わるまで肘ひじ掛かけ椅子に座っ

て待つことにした。ホームズはガラスのピペットを手にこっちの瓶からもあっちの瓶から

も液体を少量ずつ吸いあげ、最後に溶液の入った試験管をテーブルへ移した。右手にはリ

トマス試験紙を持っている。

「ワトスン、きみは決定的瞬間に居合わせることになったよ。この紙が青いままだったら

問題なしだが、赤に変わったら一人の人間の命にかかわる」ホームズはリトマス試験紙を

試験管の中に浸した。たちまちくすんだ深紅色に変わった。「ふむ! やっぱりそうか。

ワトスン、すぐに用件をうけたまわるから、あと少しだけ待ってくれたまえ。煙草ならペ

ルシャスリッパの中に入っている」

 机に向かったホームズは電報を何通かささっと書き、雑用係の少年を呼んで渡した。そ

のあと私の向かいの椅子に勢いよく腰かけると、両りよう膝ひざを引き寄せてほっそりし

た長い脛すねの前で両手を組んだ。

「ありふれたつまらない殺人事件だったよ。きみの持ってきたほうは少しはましだろう。

嵐を予告する海うみ燕つばめよろしく、犯罪を運んでくる人だからね、きみは。で、どん

な事件なんだい?」

 私がパーシーフェルプスからの手紙を渡すと、ホームズは真剣な面持ちで目を通し

た。

「これじゃ要領を得ないね」ホームズは手紙を私に返した。

「まったくだ。どういう事情かさっぱりわからない」

「筆跡には興味を引かれたけどね」

「書いたのは本人じゃないよ」

「わかってるさ。これは女性の筆跡だからね」

「まさか! 男性だろう!」

「いいや、これは女性だよ。しかも稀け有うな性分の持ち主だ。捜査の手始めとして、依

頼人の身近なところに、善人か悪人かはわからないが珍しい気性の人物がいるという点

は、心に留めておいたほうがいいだろう。早くも興味をかきたてられたよ。きみさえよけ

れば、すぐにウォーキングへ出発しよう。不運に襲われたこの外交官と手紙を代筆した女

性に、さっそく会ってみたい」

 ウォータールー駅に着くと、ちょうどいい汽車があり、一時間もしないうちに樅もみの

木立とヒースの荒野が広がるウォーキングへ到着した。ブライアブレイ荘は駅から歩いて

数分の場所にある、広大な敷地に建つ宏こう壮そうな邸宅だった。玄関で名刺を渡して取

り次いでもらうと、優雅なおもむきの客間へ通された。間もなく恰かつ幅ぷくのいい男が

現われ、丁重に応対してくれた。三十より四十に近い年齢のようだが、頰が赤らみ、目は

愛敬たっぷりで、ぽっちゃりと太った腕白小僧の面影をそのまま残している印象を受け

た。


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