「よくいらっしゃいました」男の握手には気持ちがこもっていた。「パーシーは朝から
ずっと、あなた方の到着を今や遅しと待ちわびておりました。ああ、なんてかわいそう
に。藁わらにもすがりたい心境でしょう。わたしは彼の両親から代わりにお相手をするよ
うにと頼まれましてね。二人にとって、今回の事件は口にするだけでもつらいんですよ」
「詳細はまだうかがっていないのですが」ホームズは言った。「それから、あなたはここ
の家族の一員ではないようですね」
相手はびっくりしたが、ちらりと下を見たあと急に笑いだした。
「ああ、そうか、ロケットに彫ってある〝J・H〟の頭文字をご覧になったんですね。一
瞬、魔法でもお使いになったのかと思いましたよ。ジョゼフ・ハリスンと申します。パー
シーはわたしの妹のアニーと結婚することになっていますので、いずれ姻いん戚せきには
なるわけです。妹はパーシーの部屋におりますよ。この二カ月間、つきっきりで看病して
きたんです。すぐにそちらへ行きましょう。パーシーが待ちくたびれるといけませんか
ら」
案内された部屋は客間と同じ階にあった。居間兼寝室として使われているらしく、部屋
の隅々に花がきれいに飾ってある。開け放された窓のそばの寝椅子に、青ざめてげっそり
とした顔の青年が横たわっていた。窓からは庭園のかぐわしい香りと夏の心地よい風が
入ってくる。青年のかたわらに腰を下ろしていた女性は、私たちを見るとすぐに立ちあが
り、青年に尋ねた。
「わたしは席をはずしましょうか、パーシー?」
青年は彼女の手をつかんで引き止めた。「やあ、ワトスン。しばらくだったね」親しみ
のこもった声で言った。「口ひげを生やしているから、まるで別人みたいだよ。きみのほ
うもこんな姿を見たら、ぼくだとはわからないだろうね。ところで、こちらがきみの友人
の有名なシャーロック・ホームズさんだね?」
私は簡単にホームズを紹介してから、二人とも椅子にかけた。さっきの太った男は部屋
を出ていったが、妹のほうは部屋に残り、病人の手を握っていた。目をみはるような美人
だ。背が低く、ややずんぐりした体型だが、美しいオリーブ色の肌にイタリア人のような
大きな黒い瞳ひとみが輝き、豊かな漆黒の髪も実にすばらしい。彼女の色つやのいい顔の
そばだと、フェルプスの青白い顔はいっそうやつれて見えた。
「ホームズさんの貴重なお時間を無駄にするわけにはいきません」パーシーは寝椅子の上
で身体を起こした。「前置きは抜きにして、さっそく本題に入りたいと思います。私は地
位に恵まれた幸せ者でした。ところが結婚を間近に控えて、突然の恐ろしい不運に将来の
望みを完全に絶たれてしまったのです。
ワトスン君からすでにお聞き及びかもしれませんが、わたしは外務省に勤務していま
す。伯お父じのホールドハースト卿きようの後ろ盾でとんとん拍子に出世してきました。
伯父が現内閣の外務大臣に就任してからは、責任重大な仕事を何度も任されましたが、ど
れも首尾よく成し遂げてきたので、伯父はわたしの才能と手腕に全幅の信頼を置くように
なりました。
二カ月半ほど前──正確には五月二十三日のことですが、伯父の執務室へ呼ばれました。
伯父はわたしのこれまでの労をねぎらったあと、新たに重要な任務を引き受けてもらいた
いと切りだしました。
『これなんだが』伯父は机の抽斗ひきだしから筒状に巻いた灰色の書類を取りだして言い
ました。『イギリスとイタリアとのあいだで交わされた秘密条約の原本だ。遺憾ながら、
噂がすでに新聞に流れてしまったようだが、事はきわめて重大なので、これ以上外部に漏
れるようなことがあってはならない。フランスやロシアの大使館は、この文書の内容を知
るためなら金に糸目をつけないだろう。よって本来ならばこの抽斗に厳重にしまっておく
のだが、どうしても写しを作成せねばならなくなった。おまえは役所に自分の机がある
ね?』
『はい、あります』
『ではこの文書を持っていって、机に鍵かぎをかけて保管するように。今夜はほかの同僚
が帰宅したあとも、おまえだけ居残れるよう取りはからっておくから、誰にものぞかれる
心配なく書き写せるだろう。作業が完了したら、原本と写しの両方を机にしまって忘れず
に鍵をかけ、明朝わたしに直接手渡してもらいたい』
ということで、わたしは文書を預かり──」
「ちょっとお待ちを」ホームズが口をはさんだ。「その話をしていたとき、あなた方は二
人きりでしたか?」
「はい、そうです」
「そこは広い部屋でしたか?」
「三十フィート四方の部屋です」
「その真ん中におられた?」
「ほぼ真ん中でした」
「話し声は小さかったのですか?」
「伯父は普段から声がとても低いのです。わたしのほうはほとんどしゃべりませんでし
た」
「わかりました」ホームズはそう言うと、目を閉じた。「先をお続けください」
「伯父に指示されたとおりに文書を自分の机にしまい、同僚が全員帰ってしまうまで待ち
ました。同室のチャールズ・ゴローという同僚がまだ残業していたので、先に夕食を済ま
せようと彼を部屋に残したまま外へ出ました。戻ったときには彼はもういませんでした。
わたしは手早く仕事を終わらせるつもりでした。ジョゼフが──あなた方がさっきお会いに
なったハリスンのことですが、彼がロンドンに出てきていて、十一時の汽車でウォーキン
グへ帰ることになっていましたので、できれば同じ汽車に乗りたかったのです。
問題の条約文書に目を通してみますと、なるほどきわめて重要な内容で、伯父の言った
ことは決して大げさではないと思いました。詳細には触れられませんが、大まかに説明す
れば、三国同盟に対するイギリスの立場を明確に記し、地中海においてフランス艦隊がイ
タリア艦隊を制圧した場合にイギリスが取りうる政策を示すものです。扱われている問題
は純粋に海軍に関するもので、文書の終わりに両国の政府高官の署名が並んでいました。
わたしは通読を終えると、ただちに書き写す作業に移りました。
条約はフランス語で書かれており、二十六条からなる長い文書です。できるだけ急いで
写したのですが、九時になっても九条までしか終わらず、予定の汽車にはとても間に合い
そうにありませんでした。おまけに夕食をとったのと、一日の仕事の疲れのせいで、眠気
を催してきました。コーヒーを飲めば少しは頭がすっきりするかもしれません。階段の下
にある小さな詰め所には当直の管理人がいて、残業している者のためにアルコールランプ
でコーヒーをいれてくれることになっています。そこで管理人を呼ぼうと呼び鈴を鳴らし
ました。
驚いたことに、やって来たのは女でした。エプロンをつけた、品のない顔立ちの大柄な
年配の女です。管理人の妻で、雑用を受け持っているとのことなので、わたしはコーヒー
を持ってくるよう言いました。