「鋭いご指摘です。わたしもそのとき同じことを考えました。ですが確認したところ、い
つも管理人室で靴を脱ぎ、スリッパに履き替えていたのだとわかりました」
「なるほど、そうですか。では、その晩は雨だったにもかかわらず、足跡はひとつもな
かったわけですね? どれもこれも興味深い出来事ばかりだ。で、次にどうなさったんで
す?」
「部屋の中をくまなく調べました。秘密のドアなどあるはずないですし、窓は地上から三
十フィートの高さです。しかも窓はふたつとも内側から鍵かぎがかかっていました。床は
絨じゆう毯たんが敷いてあるので落とし戸もありませんし、天井はありふれた白い漆しつ
喰くいです。命に賭かけて誓ってもいい。書類を盗んだやつはドア以外のところからは絶
対に入ってこられません」
「暖炉はどうでしょう?」
「部屋に暖炉はありません。ストーブはありますが。呼び鈴の紐ひもはわたしの机のすぐ
右側に針金からぶら下がっています。つまり呼び鈴を鳴らしたやつは、わたしの机のそば
まで来たことになります。しかし、泥棒がなぜ呼び鈴を鳴らすんでしょう? それがなに
より不可解です」
「たしかに解げせませんね。次にどうなさいました? 室内を調べる際には、侵入者の痕
こん跡せきが残っていないかどうかも確かめたんでしょう? たとえば葉巻の吸い殻と
か、手袋の片方とか、ヘアピンとか?」
「そういった物はどこにも落ちていませんでした」
「匂いはどうです?」
「さあ、匂いのことは思いつきませんでした」
「なるほど。こういった捜査では、煙草の匂いかなにか残っていると大いに役立つんです
がね」
「わたしは煙草を吸いませんので、もし煙草の匂いが残っていたら気づいたはずです。と
にかく、手がかりになりそうなものはまったくありませんでした。ひとつだけはっきりし
ているのは、管理人の女房──ミセス・タンギーといいます──が役所から急いで立ち去っ
たということです。管理人は女房がいつも帰る時間だったんだの一点張りでした。警官と
相談した結果、彼女が書類を盗んだと仮定すれば、それを処分してしまう前につかまえる
べきだという点で意見が一致しました。
その頃にはもうスコットランド・ヤードに通報が入っていたようで、フォーブズという
刑事がすぐに来て、精力的に捜査を始めていました。わたしはフォーブズ刑事と一緒に辻
つじ馬車に乗り、三十分ほどで管理人から聞いた住所に到着しました。ドアを開けたのは
若い娘で、タンギー家の長女だということです。母親はまだ帰っていなかったため、わた
したちは表側の部屋に通されて待ちました。
それから十分くらい経って、ドアにノックの音がしたのですが、わたしたちはそこで重
大な過ちを犯してしまいました。ドアを娘に開けさせてしまったのです。戸口で娘がこう
言うのが聞こえました。『母さん、男の人が二人、中で待ってるわよ』その直後、廊下を
ぱたぱたと走っていく足音がしました。フォーブズ刑事が急いでドアを開け、二人で奥に
ある台所へ駆けこみました。女はすでにそこにいて、ふてぶてしい目つきでこっちをにら
んでいましたが、わたしに気づくなり驚きの表情を浮かべました。
『あれ、役所のフェルプスさんじゃありませんか!』
『なんだって? じゃあ、誰が来たと思って逃げたんだ?』刑事が言いました。
『借金の取り立て屋かと思ったんですよ。ある店と支払いのことでもめてるもんですか
ら』
『でまかせを言うな』フォーブズが言い返します。『おまえさんが外務省から重要書類を
盗みだしたことはちゃんとお見通しだぞ。それを処分しようと、ここへ逃げこんだんだ
な。さあ、警察まで来てもらおう。徹底的に調べてやる』
女がどんなに文句を言おうが、無駄な抵抗でした。四輪馬車が呼ばれ、刑事とわたしは
タンギーの妻と一緒に乗りこんでスコットランド・ヤードへ向かいました。その前に台
所、特にかまどを念入りに捜索し、わたしたちが踏みこむ前に女が書類を燃やさなかった
かどうか調べました。しかし、灰も燃え殻も見つかりませんでした。スコットランド・
ヤードに着くと、女は身体検査のため婦人取調官に即刻引き渡されました。わたしはじり
じりしながら結果を待ったのですが、結局、書類は出てきませんでした。
そのときになって初めて、自分の置かれた状況がどれほど深刻かに気づき、恐怖で身が
すくみました。それまではずっと動きどおしだったので、慌ただしさに紛れて思考力が麻
ま痺ひしていたのです。条約文書はすぐに取り戻せると信じきっていて、もし取り戻せな
かったらどうなるかということは考えもしなかったのです。けれども、これ以上打つべき
手がなくなってしまうと、自分の立場をまざまざと思い知らされました。ああ、なんと恐
ろしい! ここにいるワトスン君がよく知っていますが、わたしは臆おく病びような、感
じやすい子供でした。それが生まれ持っての性分ですから、今も同じです。伯父やほかの
大臣たちのことが脳裏に浮かび、自分の不始末のせいでまわりにいる大勢の人たちにまで
多大な迷惑がかかるのだと思うと、生きた心地がしませんでした。自分はとんだ災難に巻
きこまれた被害者だ、などという言い訳がどうして通用するでしょう? 外交上の利害に
かかわるゆゆしき事態に、酌量の余地はありません。わたしはもうおしまいです。汚辱に
まみれた真っ暗闇の破滅です。
そのとき自分がどうしたかは記憶が定かではありません。おそらくとんでもない醜態を
演じたんでしょう。気がついたら警官たちがまわりに集まって、わたしを落ち着かせよう
としていたのをかすかに覚えています。一人の警官がわたしを馬車でウォータールー駅へ
送り届け、ウォーキング行きの汽車に乗るまで見送ってくれました。たまたま同じ汽車に
近所に住む医師のフェリア先生が乗り合わせていましたが、そうでなかったら、警官は家
まで送ってくれたでしょう。フェリア先生が親切にも付き添い役を引き受けてくださった
のは、大変ありがたいことでした。というのも、わたしは駅で発作を起こし、家へ帰り着
く頃には錯乱状態に陥って、支離滅裂なことを口走っていたようなのです。
ですからフェリア先生が玄関の呼び鈴を鳴らして、家の者が起きだしてきたときの騒ぎ
は、容易にご想像がつくかと思います。わたしのありさまを見て、みんなびっくりしまし
た。ここにいるアニーや母はどんなにか心を痛めたことでしょう。フェリア先生は駅で警
官から事情を聞いていて、家族に事情を説明してくれたようですが、それで事態が好転す
るわけではありません。わたしの病気が長引きそうなのは誰の目にも明らかでした。そこ
で急きゆう遽きよ、この居心地のいい寝室をジョゼフに空け渡してもらい、わたし専用の
病室として使うことになったのです。ホームズさん、それ以来九週間以上もここで寝たき
りになっていました。脳炎で頭がもうろうとしたまま、うわごとを言い続けて。アニーや
フェリア先生の手厚い看護がなかったら、今頃はこうして話すこともできなかったでしょ
う。昼はアニーが看病してくれ、夜間は雇いの看護師に付き添ってもらいました。発作を
起こすと、どうなるかわからなかったからです。意識は徐々にはっきりしてきましたが、
記憶が完全に戻ったのはつい三日ほど前のことです。記憶なんか一生戻らなければよかっ
たのにと思うこともありますが。