意識が回復して真っ先にやったのは、事件を担当するフォーブズ刑事に電報を打つこと
でした。彼はわざわざここへ足を運んで、捜査状況を説明してくれました。八方手を尽く
したが、手がかりは依然として見つからない、とのことでした。タンギー夫妻については
あらゆる角度から徹底的に洗ったものの、解決の糸口になるようなものはなにもつかめな
かったそうです。そのあと警察はチャールズ・ゴローに疑いを向けました。覚えておいで
だと思いますが、事件当夜、役所で残業していた同僚です。疑いといっても、部屋に居
残っていたことと、姓がフランス系だということしか根拠はないんです。わたしが例の仕
事に取りかかったのはゴローが帰ったあとですし、彼はたしかにユグノー( 訳注:フランス新教
徒 )の家系ですが、心情の面でも生活習慣の面でもホームズさんやわたしとなんら変わりな
いイギリス人なのです。いずれにしろ、実際に調べてみて彼は事件とは無関係だと判明し
ました。
というわけで捜査はふりだしに戻ってしまい、ホームズさん、今はもうあなただけが頼
みの綱です。あなたに見捨てられたら、わたしは地位も名誉も永久に失ってしまうので
す」
病人が話し疲れてぐったりとクッションにもたれると、看護役のアニーが気付け薬を
コップから飲ませた。ホームズは目を閉じて頭を後ろへそらし、黙りこくったまま座って
いる。彼を知らない者の目には無気力な態度に映るかもしれないが、本当は一心不乱に考
えている証拠なのだ。
「非常にわかりやすいお話でしたので」しばらくしてホームズは口を開いた。「こちらか
らお尋ねしたいことはほんの少しだけです。ただ、きわめて重要なことを確認しておかな
ければなりません。あなたは今回の特殊な任務のことを誰かに話しましたか?」
「いいえ、誰にも話していません」
「ここにおられるミス・ハリスンにも?」
「そうです。命令を受けてから仕事に取りかかるまでのあいだ、ウォーキングへは戻って
いませんから」
「ご家族のどなたかが、たまたまあなたに会いにいったということもありませんね?」
「ありません」
「ご家族の中に、役所の内部についてご存じの方はいらっしゃいますか?」
「ええ、いますとも。全員です。わたしが職場を案内してまわったことがありますから」
「そうでしたか。もちろん、条約文書のことを誰にも話していないのなら、今の質問は無
意味ですがね」
「いっさい話していません」
「管理人のことで、なにかご存じですか?」
「昔、兵隊にいたということしか知りません」
「どの連隊でしょう?」
「ええと、たしか──コールドストリーム近衛連隊だと聞いた覚えがあります」
「なるほど、ありがとうございます。詳しいことはフォーブズ刑事に尋ねれば、教えてく
れるでしょう。警察は情報集めは得意ですからね。それをもっとうまく使いこなせればい
いんですが。ああ、薔薇ばらというのはなんて美しいんだ!」
ホームズは寝椅子の横を通り過ぎて、開いている窓へ歩み寄ると、苔こけ薔薇のしだれ
た茎に手を添え、深紅色と緑色の絶妙な色合いを眺めた。私はホームズの新しい一面を見
た思いがした。彼が自然の事物に深い興味を示すことなど、これまで一度もなかったから
だ。
「宗教ほど推理を必要とするものはありません」窓の鎧よろい戸どにもたれ、ホームズが
言う。「理論家の手にかかれば、宗教さえも精密科学のごとく緻ち密みつに築かれるので
す。神の恵みの真髄は、こうした花にこそ宿っているのではないでしょうか。それ以外は
すべて、力も欲望も食物も、われわれが生存するうえで必ひつ須すのものです。しかし薔
薇の花はそうではない。言ってみれば、よけいなものだ。この香りや色は、われわれの生
命を維持するためではなく、われわれの人生を飾るために存在しています。よけいなもの
を与えてくれるのが神の恵みです。だからこそ、われわれは花からたくさんの希望を得ら
れるのでしょう」
こうして長広舌をふるうホームズを、パーシー・フェルプスとアニー・ハリスンはあき
れた顔で見つめていた。二人とも失望の色をありありと浮かべている。ホームズは苔薔薇
を指先でつまんで、夢想にふけり始めた。それが数分間続くと、アニーが沈黙を破った。
「事件を解決する見通しはついておいでなんでしょうか、ホームズさん?」どこかとげを
含んだ口調だった。
「ああ、事件ね!」ホームズはようやく現実に戻ったようだ。「まあ、はっきり言って、
この事件が難解で複雑であることは否定できませんが、これからじっくり調べて、わかっ
たことがあったら必ずお知らせしますよ」
「なにか手がかりをつかんでいらっしゃるんですか?」
「お話をうかがって、七つほど見つけましたが、重要かどうかは充分に調査してからでな
いと申しあげられません」
「疑っている人が誰かいますの?」
「僕自身を疑っています」
「どういうことでしょう?」
「あまりにも早く結論に達したからです」
「でしたら、ロンドンへ戻って、早くその結論をお確かめになってください」
「大変すばらしいご忠告です、ミス・ハリスン」そう言って、ホームズはきびきびと動き
だした。「ワトスン、そうしたほうがよさそうだ。フェルプスさん、過大な期待はお持ち
にならないように。この事件はもつれにもつれていますからね」
「今度お会いするまでに、わたしはまた高熱でやられているかもしれません」外交官の青
年は悲痛な声で言った。
「明日、同じ汽車で来ますよ。嬉うれしい報告は持参できないかもしれませんが」
「本当に来てくださるんですか? ああ、それはありがたい。事件のために誰かが動いて
くれていると思うだけで、生きる張り合いが出てきます。ところで、ホールドハースト卿
きようから手紙をもらいました」
「ほう! それで、卿はなんと?」
「冷淡な感じでしたが、冷酷ではありません。わたしの病状が深刻なので、厳しく責める
わけにもいかないのでしょう。事の重大さを繰り返し強調したうえで、わたしが快復し
て、今回の不始末を償えるようになるまでは、処分は保留にすると書いてありました。つ
まり、すぐには免職処分にしないということです」
「なるほど、理にかなった配慮あるご判断ですね」ホームズは言った。「さあ行こう、ワ
トスン。ロンドンでは、たっぷり一日分の仕事が待っているからね」
ジョゼフ・ハリスンに馬車で駅まで送ってもらい、間もなくポーツマス線の列車に乗り
こんだ。ホームズはしばらく沈思黙考を続けていたが、クラパム駅を通過する頃にようや
く口を開いた。