「しかし、とても信じられませんな、ホームズさん。泥棒は額に入れて飾っておくためだ
けに、文書を盗んでいったわけではないでしょうから」
「値がつりあがるのを待っているのかもしれません」
「待ちすぎると、紙くず同然になるんですがね。数カ月も経てば、あの条約文書の内容は
秘密でもなんでもありませんからな」
「そうでしたか。非常に有用な情報です。もちろん、泥棒が急病になった可能性も完全に
は否定できませんが──」
「たとえば、脳炎で発作を起こしたというような?」ホールドハースト卿が鋭い目でちら
りとホームズを見た。
「そういう意味で申したのではありません」ホームズは落ち着き払って答えた。「さて、
閣下、貴重な時間を長々と割いていただきありがとうございました。そろそろ失礼したい
と思います」
「犯人が誰であれ、あなたの捜査が成功するよう祈っていますよ」高名な政治家は戸口で
お辞儀をして私たちを送りだした。
「なかなかの好人物だね」ホワイトホール通りへ出ると、ホームズは言った。「しかし今
の地位を保つのに四苦八苦しているようだ。もともと大金持ちというわけではないのに、
出費が恐ろしくかさむんだろう。靴底が張り替えてあったのに気づいたかい? さてワト
スン、もう本業に戻ってもらってかまわないよ。馬車に関する広告にどこからも連絡が来
ていなければ、今日はもうやることはないからね。だが明日になったら、今日と同じ汽車
で僕と一緒にウォーキングへ行ってもらいたいんだ。ぜひとも頼むよ」
というわけで次の朝、私はホームズと落ち合ってウォーキングへ出発した。例の馬車を
探す広告にはなんの反応もなく、事件に光明を投げかける新たな手がかりはまだ見つから
ないとのことだった。ホームズはその気になればアメリカ先住民のような無表情を装える
ため、捜査の進しん捗ちよく状況に満足しているのかどうかはまったくわからなかった。
彼が車中で持ちだした話題はベルティヨンの人体測定法で、このフランスの人類学者を口
を極めてほめていた。
フェルプスは婚約者にかいがいしく看病してもらっていたが、見たところ、昨日より
ずっと元気そうだった。私たちが部屋へ入っていくと、難なく寝椅子から起きあがって挨
あい拶さつした。
「なにか進展はありましたか?」フェルプスは期待をこめて訊いた。
「喜んでいただけそうな報告はできません。予想していたことですが」ホームズは答え
た。「フォーブズ刑事に会い、あなたの伯父上とも話をしてきました。そのほか、捜査の
網をいくつか張っておきましたので、なにか情報を得られるかもしれません」
「では、さじを投げたわけではないんですね?」
「投げるものですか」
「なんて心強いお言葉でしょう!」アニー・ハリスンが大きな声で言った。「わたしたち
が勇気と忍耐を持ち続けさえすれば、真相はきっと明らかになりますわ」
「実は、むしろこちらのほうから報告しなければいけないことがいろいろとあるのです」
フェルプスは寝椅子に座り直して言った。
「そうではないかと思っていましたよ」
「昨夜、ちょっとした騒ぎがあったんですが、もしかしたら大変な事態になっていたかも
しれないのです」話すうちにフェルプスは険しい表情に変わり、目が恐怖に似た色を帯び
た。「自分は知らず知らずのうちに、巨大な陰謀の渦中に投げこまれたのではないかと思
い始めています。名誉ばかりか、命まで奪われようとしている気がするのです」
「ほう!」ホームズは声を漏らした。
「最初はそんなばかなと思いました。自分の知るかぎり、敵など一人もいないのですか
ら。しかし昨夜の出来事を考えると、それ以外に解釈のしようがないのです」
「どんな出来事かお聞かせください」
「まずお話ししておきたいのは、昨晩はこの部屋で初めて、付き添いの看護師なしで寝た
ということです。だいぶ快復に近づいてきたので、一人でもだいじょうぶだろうと思った
のです。一応、常夜灯はつけておきましたが。すると、午前二時ぐらいだったと思います
が、浅い眠りでうつらうつらしていると、急にかすかな物音がして目が覚めました。ネズ
ミが板をかじっているような音です。きっとそうだろうと思いながら、しばらく耳を澄ま
していました。音は次第に大きくなっていき、やがて窓のほうから突然カチッと金属音が
しました。わたしはびっくりしてベッドに起きあがりました。なんの音かは考えるまでも
ありません。初めのかすかな音は、何者かが窓枠の隙間に道具をこじ入れようとした音
で、次の金属音は掛け金をはずした音です。
そのあとはしんと静まり返りました。さっきの音でわたしが目を覚まさなかったかどう
か、相手は気配をうかがっているようでした。十分ばかり経つと、かすかにきしむ音が聞
こえ、窓がじりじりと開いていきました。ただでさえ神経がまいっていたわたしは、もう
じっとしていることができませんでした。ベッドから飛びだして、鎧よろい戸どを勢いよ
く開け放ちました。すると男が窓の下にうずくまっています。さっと逃げてしまったの
で、姿はよく見えなかったのですが、マントのようなものをはおっていて、顔の下半分ま
で隠れていました。それから、まちがいなく手になにか凶器を握っていました。長いナイ
フのようです。逃げようと身をひるがえしたときに、その刃がきらりと光りました」
「実に興味深いお話ですね」ホームズは言った。「それからどうしました?」
「もう少し元気だったら、窓から飛びだして男を追いかけていたでしょうが、こんな状態
ですから、呼び鈴を鳴らして家の者を起こすしかありませんでした。ところがしばらく
経っても誰も来ません。呼び鈴は台所で鳴るのですが、使用人たちはみんな二階で眠って
いたからです。そこで今度は大声で呼ぶと、ジョゼフが来てくれ、ほかの者たちを起こし
てまわりました。ジョゼフと馬丁が窓のすぐ外の花壇で足跡を見つけましたが、しばらく
雨が降っていなかったので、足跡は芝生で途絶えていました。しかし彼らの話では、道路
沿いにめぐらしてある木の柵さくを何者かが乗り越えようとしたらしく、一番上の横木が
一箇所折れていたそうです。まだ地元の警察には通報していません。ホームズさんのご意
見をお聞きしてからと思いまして」
このフェルプスの話に、ホームズはかなり衝撃を受けたようだった。椅子から立ちあが
ると、興奮を抑えきれない様子で室内を歩きまわった。
「不運というのは重なるものですね」フェルプスは微笑を浮かべたものの、昨夜のことを
思い出して内心ではおびえているようだった。
「本当にとんだ災難でしたね」ホームズは言った。「どうです、僕と一緒に屋敷のまわり
を軽く散歩しませんか?」
「そうですね。少し日光を浴びたいですし。ジョゼフも呼びましょう」
「わたしもご一緒しますわ」ハリスン嬢が言った。
「いえ、申し訳ないのですが」ホームズは首を振った。「あなたはここに残ってくださ
い」