「もしやとは思っていたんだが」ホームズはうめくように言った。「やつに逃げられ
た!」
「モリアーティにか?」
「組織の一味は全員つかまえたが、モリアーティだけは取り逃がしたそうだ。裏をかかれ
たらしい。僕がイギリスを離れているから、やつと渡り合える人間は誰もいなかったとい
うわけさ。しかし、こんなことにならないよう万全の準備を整えたつもりだったんだが。
ワトスン、きみはイギリスへ戻ったほうがいいかもしれない」
「なぜだい?」
「僕が危険な道連れになったからさ。モリアーティは職も失ったし、警察が目を光らせて
いるロンドンへはもう戻れない。こういうにっちもさっちもいかない状況では、あの性分
から考えて、僕への復ふく讐しゆうに捨て身でかかるはずだ。先日の短い対面でも本人が
そう言っていたし、あれはただの脅し文句ではないだろう。だからきみは帰国して本業に
戻ったほうがいい」
長年の友人であり、長年の相棒でもある私にはとても聞き入れられない注文だった。わ
れわれはストラスブールの食堂でその問題を三十分かけて議論した結果、このまま旅を続
けることになり、その日の晩に無事ジュネーヴ入りした。
それから一週間ほどは、美しいローヌ渓谷を気の向くまま散策し、ロイクで脇道にそ
れ、まだ雪深いゲミ峠を越えてインターラーケン経由でマイリンゲンに至った。実に気持
ちのいい旅で、見下ろせば春の新緑あふれる谷、見上げれば踏む人のない純白の雪山とい
う風光明めい媚びな景色をたっぷり楽しんだ。それでもホームズは忍び寄る影の存在を
いっときも忘れてはいなかった。素朴なアルプスの村だろうと、寂しい山道だろうと、す
れちがう人には決まって鋭い視線を投げ、用心深く観察した。どこを歩いても、臭跡を追
いかけてくる獰どう猛もうな犬からは逃れられないのだと確信しているようだった。
一度こんなことがあった。ゲミ峠を越えて物寂しいダウベン湖のほとりを歩いていたと
き、右手の尾根から突然大きな岩がごろごろとすさまじい音で転がり落ち、私たちのすぐ
後ろで湖に飛びこんだ。ホームズは即座に尾根へ駆けのぼり、急きゆう峻しゆんな峰に
立って四方を見渡した。ガイドがこのあたりでは春になると落石は日常茶飯事だとなだめ
たが、ホームズは納得しなかった。予想が的中したことを得意がるふうな表情で、私に無
言のまま笑いかけた。
そんなふうに絶えず気を張ってはいたものの、暗く落ちこむようなことは一度もなかっ
た。それどころか、あれほど生気あふれるホームズを見るのは初めてだった。モリアー
ティ教授が社会から完全に放逐されれば、探偵として思い残すことはひとつもない、喜ん
でこの商売に終止符を打とう、と繰り返し言っていた。
「ワトスン、そうなったとき、僕の人生はまったく無駄ではなかったんだと思えるだろ
う。たとえ今夜、命が燃え尽きる運命だとしても、それを甘んじて受け入れることができ
るよ。これまでの努力が実って、ロンドンの空気は以前よりすがすがしくなった。一千件
を超える事件を手がけてきたが、おのれの知恵を悪事に利用したことは一度もない。最近
は社会の不自然なゆがみによって生じた薄っぺらな問題よりも、天の配剤による意義深い
問題に腰を据えて取り組みたくなった。ワトスン、僕がヨーロッパで最も危険で悪賢い男
をつかまえるか滅ぼすかして、探偵としての経歴の頂点をきわめた暁には、きみの回想録
もいよいよ幕を閉じることになるだろう」
さて、語るべきことは残りわずかとなった。ここから先は簡潔に、しかし厳密に記した
い。気は進まないけれども、細部までていねいに書きつづることが私の務めだと感じてい
るからである。
五月三日、私たちはマイリンゲンの小さな村に着き、当時は先代のペーター・シュタイ
ラーが切り盛りしていた〈イエンギグリリツシスヤー旅・ホ館ーフ〉に投宿した。宿の主
人は物知りで、ロンドンの〈グロヴナー・ホテル〉で三年間ウェイターとして働いた経験
を持つだけあって英語も堪能だった。主人と相談して、山をいくつか越えたあとローゼン
ラウイの村に泊まる予定を組み、四日の午後に出立した。少し遠回りすることになるが、
途中で山の中腹にあるライヘンバッハの滝にぜひとも立ち寄るようにと宿の主人に勧めら
れた。
実際に行ってみると、そこは恐ろしげな場所だった。雪解け水で水量を増した激流が巨
大な滝壺にのみこまれ、燃えている家から噴きだす煙のごとく水しぶきが烈々と巻き起
こっていた。川が流れ落ちる先には巨大な裂け目がぱっくりと口を開け、そのまわりを石
炭と見まがうばかりの黒光りする岩がごつごつと取り囲んでいる。裂け目は次第に幅が狭
くなって、激しく泡立つ底知れぬ深しん淵えんに変わり、そのとがった縁から水を勢いよ
くあふれ出させている。巨大な緑色の水柱は切れ目なく落下を続け、ゆらめく分厚い水煙
がもうもうと上がり、見ている者はその絶え間ない渦巻と大音響にきっとめまいを覚える
だろう。私たちは断だん崖がいの端に近いところから下をのぞきこんだ。眼下のはるか向
こうで、黒い岩にあたって砕けた水がきらめいている。人間の叫び声にも似た、滝壺の水
しぶきがあげる轟音にじっと耳を澄ました。
滝の全体を眺められるようにと崖がけには小道が刻まれていたが、途中で唐突に行き止
まりになっているため、見物人はもと来た道を引き返さねばならなかった。私たちも回れ
右して戻りかけたのだが、ちょうどそのとき、スイス人の若者が手紙を手に駆けてくるの
が見えた。手紙には今日発たった宿のマークが入っていて、主人から私に宛てたものだっ
た。なんでも私たちが出発したのと入れ替わりに、末期の肺結核を患うイギリス人女性が
到着したそうだ。冬のあいだダヴォス・プラーツで静養し、ルツェルンにいる友人のとこ
ろへ向かうところだったが、突然喀かつ血けつし、もう数時間しか持ちこたえられそうに
ない。同じイギリス人の医者に看み取とってもらえれば本人も安心だろうから、こちらへ
戻ってきていただけないか、とのことである。親切なシュタイラーは追伸として、さらに
こう書き添えていた。ご婦人はスイス人の医者には診てもらいたくないと言っているの
で、なおさら責任を重く感じており、どうか頼みを聞き入れてほしい、と。
そういった事情ならば、知らん顔はできない。同じ国から来た女性が異郷で死にかけて
いるのだから。しかし、ホームズをここに一人で残していくのはあまりにも心配だ。話し
合った結果、私がマイリンゲンに戻っているあいだ、手紙を届けたスイス人の青年に道案
内役としてホームズに付き添ってもらうことになった。ホームズは、もう少し滝を鑑賞し
てから、ゆっくり山を越えてローゼンラウイへ向かうと言った。私たちはそこで晩に落ち
合う約束をした。去り際に見やると、ホームズは岩にもたれて腕組みをし、逆巻く奔流を
じっと見下ろしていた。この世でホームズを見るのは、それが最後となった。
坂を下りきる直前で、私は再び後ろを振り返った。その位置からでは滝は見えなかった
が、滝に向かって山の背に沿って続く曲がりくねった小道はよく見えた。その小道を、一
人の男が急ぎ足で歩いていく。黒い人影がまわりの緑を背景にくっきりと浮かびあがって
いる。その精力みなぎる力強い歩き方に一瞬目を奪われたが、私も先を急いでいたのでじ
きに忘れてしまった。