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空家の怪事(6)
日期:2024-02-14 23:58  点击:301

 十二時近くなって人通りが次第にたえてくると、とうとう彼は落ち着きを失って部屋の

中を行ったり来たりしだした。何か言葉をかけてやろうと思って、明るい向かいの窓に目

をやると、私はまたも、さっきに劣らない驚愕 きょうがく を覚えた。私はホームズの腕にしがみ

ついて上を指した。

「影が動いてる!」

 影はもはや横顔ではなくて、背中のほうがこっちに向いているのだ。

 自分より鈍い頭の働きに対して我慢のできない、あの無愛想な性質は、三年たっても和

らいでいなかった。

「そりゃ動いたろうさ。替玉 かえだま 人形をひと目でそれとわかるように突っ立たせておいて、

それでヨーロッパ随一の頭の鋭い連中が易々 やすやす だまされると思うほど、僕はヘマはやらな

いよ。僕たちがこの部屋に来てから二時間になるが、その間にハドスン夫人が八度も頭の

向きを動かしてくれたのさ。十五分に一度だ。おかみさんは前のほうからやってくれるか

ら、影は決して映らないのさ。ああッ!」

 彼はハッと音をたてて興奮の息をのんだ。ほの暗い中で、彼が頭を前に突き出して、全

身をこわばらせて身を傾けるのが見えた。さっきの二人はまだあの戸口にうずくまってい

るのかどうか、私にはもう見えなかった。あたりはまっくらに静まりかえって、ただひと

つ、まんなかに黒い影がくっきりと映った向かいの窓の日除けだけが、黄色く輝いてい

る。その沈黙のなかに、ホームズのおさえきれない激しい興奮の声が、再びかすかに響い

た。

 その刹那 せつな 、彼は私を部屋のいちばん暗い隅に引きずりこみ、その手を私の口に押しあ

てて声を封じた。私をひっつかんだ指は震えていた。彼がそれほど興奮したのは、かつて

ないことだった。しかも、街路は人っ子ひとり通らず、何の変化も見えないのだ。

 ところが突然、彼の鋭い耳が聞きつけていたものに私も気づいた。何者かが、そっとう

ごめく音がするのだ。それもベイカー街のほうからではなくて、われわれがひそんでいる

当の家の裏手からなのだ。戸が開いて閉まる音。それから廊下をそっと忍びよる足音……

立てまいとしても、人気 ひとけ のない家の中に響きわたってしまう足音だ。

 ホームズは壁を背に身を縮めた。私もピストルを握りしめながらそれにならった。闇を

すかして瞳 ひとみ をこらしていると、やがて開いた暗い戸口に、それより黒い男の姿が漠然 ばくぜ

と浮かびでた。男は一瞬立ち止まっていたが、それから姿勢を低くしておびやかすように

這い進んできた。この不吉な影が、ふたりのところから三ヤードばかりの近さにやって来

たので、私はかかってきたら応じようと身がまえたが、相手はこっちの存在に気づいてい

ないのだった。男は二人のすぐわきを通って窓に忍びよると、ごく静かに音をたてない

で、窓を半フィートばかり押し上げた。

 男が身を沈めて窓の開いたところまで顔を持ってきたので、街路の光が今は埃 ほこり だらけ

のガラス越しにでなく、じかに男の顔にあたった。

 彼自身も興奮していると見えて、目は星のようにキラキラと光り、顔じゅうがヒクヒク

とひきつっていた。

 肉の薄い鼻が高く突き出し、額ははげあがり、太い口髭 くちひげ が白くなった中年の男だっ

た。オペラハットをぐいとあみだにかぶり、前をはだけたオーバーの下に、夜会用の

シャツの胸が白く光っている。痩せた浅黒い顔には、深い皺 しわ が刻み込まれて、凶悪な人

相を形作っている。手にステッキのようなものを持っていたが、男が床に置くとカランと

金属性の音をたてた。

 それから彼は、オーバーのポケットから嵩 かさ のあるものを取り出して、何かけんめいに

やっていたが、ばねかボルトがまわるような鋭い音がガチッと大きく響いて終りになっ

た。

 そうしておいて、床にひざまずいたまま、前かがみになって全身の重みをかけ、力一杯

に《てこ》のようなものを押すと、ギリギリという長い音がしたあげくに、またガチッと

力のこもった音がした。今度は姿勢を直したので、彼の手にしたものが、一種の銃である

ことがわかった。ただ、台尻の形が奇妙である。彼は遊底 ゆうてい を開いて何かを差しこみ、ふ

たたび閉じた。それからうずくまって、銃身の先を開けた窓の敷居の上にのせた。彼の長

い鼻が銃床にしなだれかかり、照準をつける片目がキラキラと光った。台尻を抱えて肩に

あてがい、銃先のかなたの驚くべき標的、つまり黄色い窓に映じた黒い人影を見やって、

満足げに溜息 ためいき をつくのが聞こえた。

 急に彼はピタリと動かなくなった。そして引き金の指先に力をこめた。たちまちピュッ

と耳なれぬ音が風を切ったかと思うと、ガラスが割れてチャラチャラとひとしきり音をた

てるのが聞こえた。その刹那 せつな 、ホームズが猛然と虎のように男の背に躍りかかり、うつ

伏せに叩きのめした。男はたちまち起き上がり、死力をふりしぼってホームズの咽喉 のど

つかみかかった。が、私がピストルの尻で男の頭に一撃加えたので、彼はまた床の上にの

びた。私がその上におそいかかってつかまえると、ホームズは鋭く呼子 よぶこ を吹いた。歩道

を駈けだす足音が聞え、ふたりの警官と私服がひとり、表戸からなだれ込んで部屋にかけ

つけた。

「レストレイド君ですね」

「そうですよ、ホームズさん。私が受け持ちました。よくロンドンに戻っておいででした

ね」

「少しは市民の協力も必要かと思いましてね。一年に迷宮入りの殺人が三つもあったん

じゃ、しょうがないでしょうが。しかし、モウルジー事件のご手腕はなかなかいつもと

違って……いやなに、たいしたお手並でしたよ」

 みんな立ち上がっていた。犯人はふたりの頑丈な警官にはさまれて、はげしく息づいて

いた。往来にはもう野次馬がたかり始めていた。ホームズは窓ぎわに歩み寄って窓を閉

め、日除けをおろした。レストレイドがローソクを二本取り出し、ふたりの警官は角燈の

おお いをはずしていた。とうとう、犯人の顔をつくづく眺めることができた。


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09/29 09:24