「拡大鏡を出してご覧下さい、ホームズさん」
「ああ、わかってます」
「ふたつ同じ指紋がないことはご存知ですな」
「そういうことを言いますね」
「それではひとつ、今朝マクファーレインの右の親指の指紋をとらせておきましたから、
これとそれと比較して頂きましょう」
と、警部が、蝋 ろう にとった指紋を、血痕の横にさし出したのを見ると、拡大鏡で見るま
でもなく、同一人物の指紋であることは明らかだった。哀れな青年も、これでおしまいだ
と思われた。
「決定的ですな」レストレイドが言った。
「ああ、決定的ですね」私は進んでこう答えるほかなかった。
「決定的です」ホームズも言った。しかし彼の調子には、何か耳に残るものがあったの
で、私はふりむいて彼を見た。途方もない変化が顔にあらわれていた。内心の嬉しさでゆ
がんでいるのだ。両の眼は星のように輝いていた。爆笑が吹き出すのを、必死にこらえて
いるように思われた。やっと口を開いた。
「これはこれは、何たることだ。いや、思いがけないもんですよ。外観ばかり見ている
と、騙 だま されるわけですねえ、まったく。あんなにおとなしそうな青年がねえ。自分の判
断を信じちゃいけないという、いい勉強になりましたよ、ねえレストレイド君」
「そうです。われわれの中にも、なかなか自信家がいますからな」
レストレイドの横柄さは腹のたつほどだったが、怒ることもならなかった。
「あの青年が帽子掛から帽子を取ろうとして、こんなところに親指をつこうなんて、神の
摂理ですねえ。考えてみたって、こいつは自然な動作ですよ」
ホームズは表面こそ冷静だったが、こう話しながら、身体全体が抑えきれぬ興奮でのた
くっている感じだった。「ところで、レストレイド君、この驚くべき発見は誰の手柄です
か?」
「家政婦のレクシントン夫人です。不寝番に立っていた巡査に教えてくれました」
「不寝番はどこにいたんですか?」
「犯行の行なわれた寝室にいて、現場に誰も手をつけないように見張っていました」
「しかし、あなた方はなぜ昨日、この指紋をご覧にならなかったんです」
「なぜって、とくに広間を調べなくちゃならない理由はなかったんですからね。それに、
ご覧の通り、あまり目だたない場所でもありますし」
「そうね、そりゃそうですね。で、指紋が昨日からあったのは確かなんでしょうね」
レストレイドはホームズをまじまじと見た。彼が発狂でもすると思ったらしい。実は私
も、彼が愉快そうな態度で突飛 とっぴ なことを言いだすのを見て、驚いたのである。
「マクファーレインが夜の夜中に監獄を抜け出して、自分に不利な証拠を残しにやって来
たとでもおっしゃるんですかね」レストレイドが言った。「あれが彼の指紋かどうか、ど
この専門家に鑑定してもらっても結構です」
「彼の指紋であることは問題ありません」
「じゃあそれで充分でしょう。ホームズさん、私は実際家ですからね。証拠が出れば結論
を下すんです。まだ何かおっしゃることがおありでしたら、私は居間で報告書を書いてい
ますからね」
ホームズは平静を取り戻していたが、しかし私は、まだ嬉しさに輝く表情をかすかに読
み取ることができた。
「やれやれ、弱ったことになったじゃないか、ワトスン君。しかしどうもおかしいところ
があるからね、青年に望みがなくなったというわけじゃない」
「そいつは嬉しいね」私は心から言った。「もう全然望みがないのかと思った」
「いや、まだそこまで言いきるほどには、いっていないよ。しかし実は、警部があんなに
重要視しているこの証拠には、重大な欠陥があるんだよ」
「なんだって。どういうことだい」
「つまりね……昨日僕が調べたときには、あの指紋は無かったということさ。ところで、
君、ちょっと日の当たるところをぶらついてこよう」
頭は混乱していたが、だんだん希望がよみがえって心温まる思いになりながら、私は
ホームズについて庭を歩きまわった。彼は建物を前後左右から眺めて、興味深げに調べて
いた。それが済むと中に入って、建物を地下室から屋根裏まで見てまわった。各部屋はた
いがい家具がなかったが、それでもホームズは微に入り細をうがって調べた。最後に使っ
ていない寝室が三つ並んだ最上階の廊下に来ると、彼はまた喜びの発作にとらわれてし
まった。
「ワトスン君、この事件には実に独得なところがあるよ。そろそろレストレイド君に打ち
明けてやってもいいだろう。さっきは僕たちを少し笑いものにしたが、僕の読みの正しさ
が証明できれは、今度は同じだけ返してやれるだろう。そうだ、そのやり方もわかった
ぞ」
ホームズが居間に入って行くと、ロンドン警視庁警部殿はまだ書きものをしていた。
「報告書を書いていらっしゃるんですね」
「そうですよ」
「少し早すぎると思いませんか。証拠固めが充分とは思われませんがね」
レストレイドはホームズをよく知っていたから、この言葉を聞き逃さなかった。彼はペ
ンを置いて物珍しげにホームズを見た。
「どういうことですか、ホームズさん」
「君がまだ重要な証人に会っていらっしゃらないということですよ」
「連れて来られますか」
「来られますね」
「じゃあ、どうぞ」
「ではやってみましょう。巡査は何人来ていますか」
「呼べば三人来ますよ」
「結構」ホームズは言った。「みなさん身体が大きくて、強くて、声が大きいですかしら
ん」
「その点は大丈夫ですが、声の大きいのがそれとどんな関係があるのですか」
「いまにおわかりになると思います、ほかのことも少しね。では、恐れ入りますがお呼び
下さい、やってみますから」
五分後に三人の警官が下の広間にそろった。
「納屋に行くと麦わらがたくさんありますからね」ホームズが言った。「ふた束ばかり
持って来て下さい。必要とする証人を呼ぶのにたいへん助けになりますから。やあ、どう
もありがとう。ワトスン君、君、ポケットにマッチがあるだろう。さて、ではレストレイ
ド君、みんな一緒に二階まで来てください」