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ひとり自転車を走らせる女(5)
日期:2024-02-14 23:58  点击:559

「そうなってくれるといいんだがね、ワトスン君。まったくねえ」ホームズのことばは

重々しかった。「可哀そうに、あの婦人のまわりには、何かただごとならぬ陰謀が企まれ

ているんだよ、だから、彼女の最後の小さい旅行に間違いがないように護 まも ってやるの

が、われわれの務めでもあるわけだ。ねえ、ワトスン君、土曜日の朝は、時間をさいて出

かけ、この奇妙な、要領を得ない事件が面倒なことにならないようにしてやらなきゃなら

んだろうね」

 実をいうと、私はこの事件を危険なものというより、奇怪な事件だと思い、さして重大

視していなかったのである。美人を待ち伏せしたり、後をつけたりすることは、別段珍し

いことではないし、その男が彼女を呼び止めないばかりか、近づこうとしたら慌てて逃げ

たというような胆 きも っ玉の小さい奴なら、たいして恐ろしい相手ではない。悪漢のウッド

リは困った奴だが、悪いことをしたのは初めだけで、その後なにも邪魔だてするでなし、

カラザズの家へやって来ても彼女の前に現われるということもなかったのだ。自転車乗り

の男というのは、酒場のおやじのいう週末組のひとりに違いない。ただこの男が誰なの

か、何を求めているのか、これはまったくわからない。

 だがホームズの緊張した態度と、彼が部屋を出るときピストルをポケットに忍ばせたこ

とから、この奇妙な一連の事件の裏に隠された悲劇が予想されるのかと、初めて緊張感を

覚えたのだった。

 一夜の雨は、すっかり晴れて朝を迎えた。ハリエニシダの群れ咲くヒースの原の田園風

景は、ロンドンのスレート色と焦茶色に飽き飽きしたわれわれの目には、ひとしお美しい

ものだった。ホームズと私は、新鮮な朝の空気を胸一杯に吸い込み、小鳥の奏でる音楽

や、春の新しい息吹とを楽しみながら広い田舎道を歩いていった。クルックスペリ丘 ヒル

さしかかる道はのぼり坂となり、樫 かし の老樹のなかに突っ立っている屋敷の不気味な姿が

見えてきた。樫の木も老樹とはいえ、屋敷にくらべたら、まだ若いようだ。

 ヒースの原の褐色と色づきはじめた新緑の森の間をまわりくねって走っている、赤味が

かった黄色の長い路を、ホームズは指さした。遠く、黒い点となって、一台の乗物が、私

たちのほうへ走ってくるのである。ホームズは我慢がならないような叫び声をあげた。

「三十分も余裕を見ておいたのに……、あれが彼女の馬車だとすると、いつもより早い汽

車に乗るつもりなんだよ。ワトスン君、こいつぁ僕らが行き会う前にチャーリントンの屋

敷を過ぎてしまいはしないかねえ……」

 坂をのぼりきると、もう馬車は見えなかったが、あまり足を急がせたので、いつも坐っ

て仕事をしている私には、これがこたえはじめた。私はおくれるばかりだった。だがホー

ムズのほうは常に練習をつんでおり、汲めども尽きぬたくましい精力を蓄 たくわ えていたので

ある。軽快な歩調を少しもゆるめなかったが、私を百ヤードばかり引き離したとき、突然

立ち止って、失望と落胆を表わすように手を高くあげた。

 そのとき、一台の空の二輪馬車が、手綱を引きずり、馬にひかれながら、角を曲がって

現われ、こちらに向かって飛んでくるのが見えたのである。

「遅かった! ワトスン君、間に合わなかった」私が息を切らしてかけつけると、ホーム

ズは、地団駄 じだんだ をふみながら言った。

「しまった、もっと早い汽車に乗ることを思いつかないなんて、何てへまをやったんだろ

う! おい、誘拐だよ、誘拐されたんだ。殺されたかも知れないぞ!畜生、やられたん

だ! 道をふさいで馬車を止めろ!よし、よし、さあ、これに乗って……この大失敗が取

り返しのつくものかどうか、やってみようじゃないか」

 馬車に飛び乗り、ホームズは馬をまわして、鋭いひと鞭 むち をくれると、田舎道を矢のよ

うにもとへ走らせた。カーブを曲がると、視界がひらけ、あの屋敷とヒースの原の間を走

る一本道が見えてきた。私はホームズの腕をむんずとつかんで叫んだ。

「あいつだ!」

 一台の自転車がこちらにやってくる。乗り手の男は頭を下げ、背中をまるめて、満身の

力を、ペタルのひとこぎひとこぎにかけて疾走してくる。まるで競輪だ。そして突然、鬚

のある顔をあげて、私たちを認めると、自転車をとめて、飛び下りた。まっ黒の鬚は、蒼

そうはく な顔と奇妙なコントラストを示している。その眼は熱でもあるかのように、ぎらつい

ている。男は、私たちと馬車をじっと睨 にら みつけた。彼の顔には驚きの色が現われてき

た。

「おい、停めろ!」自転車で道をふさぐようにして、わめきたてた。「その馬車をどこで

手に入れた? 停めんか!」脇ポケットからピストルを引き抜くと、「停めろ! こら、

畜生! 停めないと馬を射つぞ!」

 ホームズは手綱 たづな を私の膝に投げると、馬車を飛び降りた。

「君に会いたいと思っていたんだ。ヴァイオレットスミスさんはどこにいるんだ?」

 ホームズは早口だったが、言葉ははっきりしていた。

「こっちこそ、それを聞きたいんだ。君たちは、彼女の馬車に乗ってたじゃないか。どこ

にいるか、知ってるはずだ」

「途中で馬車に出会ったんだ。そのときは誰も乗っていなかった。われわれは彼女を助け

に引き返して来たんだ」

「しまった! たいへんな事になったぞ! どうしたらいいんだ」

 その男の言葉は絶望の調子を帯びていた。「あいつらが……あのウッドリの野郎と、ご

ろつきの牧師が拐 かどわ かしたんだ! さあ来て下さい。あなた方がほんとに彼女の友だちな

ら、手伝って下さい。たといチャーリントンの森に屍 しかばね をさらそうとも、彼女を救わねば

なりません」

 気でも違ったかのようにピストルを手にして、その男は生け垣の切れ目に向かって走っ

ていった。ホームズがそれに続き、私も道ばたで草を食っている馬を捨ておいて、かけ出

した。

「ここです、奴らが逃げ込んだのは……」その男は泥の上についている、いくつかの足跡

を指した。「おや? ちょっと待って下さい。草叢 くさむら のなかに誰かいますよ」

 コール天のズボンにゲートルを巻いて、馬丁ふうの身なりをした十七、八の青年が、膝

をそろえて仰向けに倒れているのだ。頭にはひどい傷をうけているが、死んではいない。

気絶したものらしい。ひと目で傷が骨まできていないことがわかった。


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09/29 11:36