日语学习网
奸賊ミルヴァートン(1)
日期:2024-02-15 21:49  点击:229

奸賊ミルヴァートン

 私がこれから述べようとする事件が起こってから数年にもなるけれども、どうも気おく

れがしてならないのである。どんなに手加減を加え、話をはしょったところで、長いあい

だ真相を公にすることなどできないことだったのであるが、今ではもう事件の主要人物は

この世を去り、もはや手の届かぬ所にいるのだから、適度にとどめておけば、人を傷つけ

ることもなく話を進められるであろう。

 それはシャーロックホームズと私自身ともどもの生涯でもまったく毛色の変わった経

験の記録なのである。私が日付とか、ほかのなにか実際起こった事件がわかるような事実

をかくしたとしても、それでお許し願えるであろう。

 ホームズと私は例の夕方の散歩に出かけ、およそ六時頃に帰宅した。寒い霜のおりるよ

うな夕方であった。ホームズがランプの芯 しん を長くしたとき、テーブルの上に一枚の名刺

が照らし出された。彼はそれにちらと目を通すと、思わず嫌悪の声をあげて、床に投げ捨

てた。私がそれをつまみあげると、

  代理人

  チャールズオーガスタスミルヴァートン

   ハムステッド、アップルドータワーズ

と読めた。

「誰だい、この男は?」と私はたずねた。

「ロンドンでいちはん悪い奴だよ」とホームズは腰をおろすと暖炉の前に足をのばしなが

ら答えた。「裏に何か書いてあるかね?」

 私は裏をかえして読みあげた。

「六時二十分におうかがいします。CM」

「ふん、じゃもうやってくるな。ワトスン君、君は動物園で蛇の前に立って、あの執念ぶ

かい目と、悪意のこもったひらべったい顔の、毒のあるぬるぬるした奴を見たら、ぞくっ

とふるえるような気分にならないかい? それなんだよ。ミルヴァートンが僕に与える印

象がそれなんだ。僕は今にいたるまで五十人もの人殺しと縁があったわけなんだが、その

中でいちばん凶悪な奴でも、僕がこいつから受けるような嫌悪を感じた奴はいなかった。

だが彼との取り引きは避けるわけにはいかないよ。実のところ、僕が呼んだのだからね」

「だが、そいつは何者なんだい?」

「こうなんだよワトスン君、彼はたかりの王様なんだ。男や、まして女の、秘密だとか世

間の取沙汰だとかが彼の耳に入ったら、もうどうしようもないんだ。にこにこしているく

せに心は冷酷で、相手がからからになるまでしぼりぬくんだ。こいつはその道じゃ天才

だ。その気になれば、なにかもっと《ましな》商売で名をあげただろうにね。彼のやり方

はこんなふうなんだよ。裕福な人間とか地位のある人間の名誉を危くするような手紙を高

く買いとる用意がある、という評判をたてておく。彼はこうしたものを不実な執事とか小

間使いの女から買いとるだけでなく、相手に気をゆるした婦人の信頼と愛情をかちえてい

るような家柄のよいならずものからも買い取るんだ。奴はけちな手はつかわない。たまた

ま僕は、彼が長さにしてわずか二行の手紙の代金として、召使いに七百ポンド支払ったの

を知っている。結果はその貴族の没落さ。売物ならなんでもミルヴァートンの所へ流れこ

むし、この大都市に彼の名を聞いただけで顔色を変える人間が何百人といるのさ。彼の魔

手がどこにかかるかは誰にもわからない。というのは、彼はとてつもなく金があって巧妙

だから、材料をすぐに使うようなことはしないんだ。彼は勝負がいちばん歩のいいときに

使うため、何年でも切り札はしまいこんでおくんだよ。ロンドンでいちばん悪い奴だって

僕は言ったが、怒りにまかせて友人を棍棒 こんぼう でなぐりつけるようなならずものと、こいつ

が比べものになるかどうかね。こいつはすでにふくらんでる財布をもっとふとらせるため

に、組織的に人の魂を苦しめ、神経を悩ますんだからね」

 私の友がこれほど感情をこめて話すのは、めったに聞いたことがなかった。

「だがしかし、そいつだって法律にひっかかるにゃ違いなかろう」

「専門的にはたしかにそうなんだよ。しかし実際には違うね。たとえばね、ある女性が彼

を数か月、豚箱 ぶたばこ にほうりこんでも、そのすぐ後で自分が没落することうけあいだとした

ら、何の得になるだろうかね。被害者たちは仕返しをする勇気はないさ。彼が潔白な人間

を脅喝 きょうかつ したら、そのときこそ捕まえられるわけだが、まるで悪魔のようにずる賢こい

からね。いやいや、もっとべつなやり方で戦うことを考えなくちゃならないのさ」

「で、どうしてここに来るんだい?」

「ある有名な依頼者が、気の毒なその事件を僕の手にゆだねたからさ。その婦人てのは、

去年の社交シーズンでデビューしたいちばんの美人イーヴァブラックウェルなんだよ。

彼女は二週間以内にドーヴァーコート伯爵と結婚することになっているんだが、彼女が軽

率に書いた手紙を、この悪魔が数通手に入れてるんだ。……ねえワトスン君、軽率なんだ

よ。少しも悪くはないんだ。その手紙というのは、田舎の若い貧乏地主に書いて送ったも

のなんだが、それだけでも婚約解消には充分だからね。多額の金を支払わなければ、ミル

ヴァートンは伯爵にその手紙を送るだろう。僕は彼にあって、できる限りの好条件をとり

結ぶことを頼まれたのさ」

 そのとき、下の街路から、がたがたという馬車の音が聞こえてきた。見下すと堂々とし

た二頭立ての馬車が見え、立派な栗毛の馬のよく肥えた尻に灯 あかり がきらきらとあたってい

た。従僕が扉をあけると、ふさふさしたアストラカンの外套を着こんだ、小柄だががっし

りした男が降りたった。そして一分後にはわれわれの部屋に入って来た。

 チャールズオーガスタスミルヴァートンは五十がらみで、大きな知的な頭をもち、

顔は丸くて肉づきがよく、すべすべしている。そしていつも微笑をたたえ、両眼は灰色で

鋭く、大きな金縁眼鏡 めがね の底からきらりと光っていた。彼の様子には何かピックウィック

氏〔ディッケンズの小説中の人物〕の慈悲心といったようなものがあったが、絶えること

のない不誠実な微笑と、きびしい光をたたえて休みなく動き、人を射通すような目だけで

も、その様子は台無しになっていた。

 彼は、さきほど伺 うか がったが会えなくて残念だったとつぶやきながら、肉づきのよい小

さな手を差し出して進みでた。その声は顔同様になめらかで感じのよいものであった。

 ホームズは差し出された手を無視して表情を動かさず彼を見つめた。ミルヴァートンの

微笑はいっそうにこやかになった。

 彼は肩をすくめると外套をぬぎ、非常に丁寧にたたんで椅子の背にかけると、坐りこん

だ。


分享到:

顶部
06/27 00:42