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奸賊ミルヴァートン(3)
日期:2024-02-15 21:52  点击:239

 彼は歩み出て外套をとると、片手をピストルにかけたままドアに向かった。私は椅子を

つかんだが、ホームズが頭を振ったので、また下ろしてしまった。微笑を浮かべ、目をぱ

ちくりしながらお辞儀をすると、ミルヴァートンは部屋を出て行った。二、三分たって馬

車の扉ががちゃんとしまり、がらがらと車輪の音をさせながら彼は去って行った。ホーム

ズはズボンのポケットに手を深くつっこみ、顎 あご をぐっと引いて、あかあかと輝く燃えさ

しをじっと見つめながら、身じろぎもせず暖炉のそばに坐っていた。

 三十分間も、彼は黙りこくって動かなかった。それから何か決心のついたときに誰もが

やるように、すっと立ち上がると寝室に入って行った。しばらくすると山羊鬚 やぎひげ をはや

し、ステッキを持った粋な若い労働者が、外に出て行こうと、ランプで陶製パイプに火を

つけて、「ワトスン君、しばらくしたら戻るよ」と言い残して夜の闇に消え去って行っ

た。

 私は彼が、チャールズオーガスタスミルヴァートンに挑戦を開始したのだとわかっ

た。しかし私は、この挑戦が奇妙な形になり終る運命にあったことなど、夢想だにしな

かったのである。

 何日間か、ホームズはいつもこの《なり》で出入りしていた。だが彼がハムステッドで

時間を過ごし、効果的に活動しているのだという以上には、彼が何をしているのかまった

くわからなかった。しかしとうとう、ある荒れ模様の晩、風がひゅうひゅう音をたて窓を

がたがたと鳴らしているとき、彼は最後の遠征から帰宅すると、変装をおとし暖炉の前に

坐って例の静かな低い声で心から笑った。

「ワトスン君、君は僕が結婚を希望しているなどとは思わないだろうね?」

「もちろんだとも」

「僕が婚約したと言ったら興味があるだろうね」

「おいおい、そいつはお祝いを……」

「それがミルヴァートンのところの女中とさ」

「ええっ、ほんとうかい?」

「うん。情報がほしかったのさ、ワトスン君」

「じゃ、少しいきすぎだったんだね?」

「どうしても必要な段階だったのさ。僕は景気のいい鉛管工で、エスコットという名前な

んだ。彼女と毎晩出歩いておしゃべりをしたのさ。たいへんなもんさ、あの話ときた

ら! しかし聞きたいことは全部手に入れたよ。今じゃミルヴァートンの家はたなごころ

をさすように承知してるよ」

「しかしホームズ君、その女の子は?」

 彼は肩をすくめた。

「どうにもならんよ、ワトスン君。こんな一六 いちろく 勝負に手を出せば、切り札は最も有効に

使わなきゃならんさ。だがね、嬉しいことには僕には恋敵 こいがたき がいてね。そいつ、嫌われ

ているんだが、間違いなく僕が手をひいたら、すぐに僕をおしのけてしまうさ。なんてい

い晩だろう!」

「こんな天気が好きなのかい?」

「僕の目的にふさわしいんだよ。ワトスン君、僕は今夜ミルヴァートンの家に押し入るつ

もりなんだ」

 私は息を呑みこんだ。その言葉を聞いて全身総毛 そうけ だってしまった。彼はそれをぎりぎ

りの決心といった調子でゆっくりと口にしたのだった。夜の稲妻 いなづま のひらめきが、一瞬に

して広漠たる光景の隈々 くまぐま を浮かび上がらせるように、一見して私には、そんな行為から

起こるだろう結果が、つまり名誉ある経歴がとりかえしのつかぬ失敗と不名誉で終止符を

うたれ、ほかならぬ私の友が、あの憎むべきミルヴァートンの慈悲を乞わねばならなくな

る……といった結果が、いちいち見えるように思われた。

「頼むからホームズ君。君のやろうとしてることを考え直してほしいね」

「ねえ君、僕はじゅうぶん検討したよ。この行動は決して無鉄砲じゃないんだ。それに

ね。ほかに何でも可能な手段があれば、僕だってこんなにも危険なたいへんな方法はと

りゃしないよ。事柄を明確に正しく見ようじゃないか。君はこの行動が形式上では犯罪と

なるが道徳的には正しいと認めるだろう。彼の家に押し入るのは、是 が非でもあの手紙を

奪ってしまうことだけなんだよ。それには君だって僕に手を貸そうとしたじゃないか」

 私はあれこれ考えたが、「うん、それはそうだ」と答えてしまった。「われわれのね

らっているものが、不正な目的に使われるもののみに限られているからには道徳的には正

しいんだ」

「まったくそうなんだ。道徳的に正しい限り、僕は身の危険という問題を考えさえすれば

いいわけだ。だが紳士なら誰でも、婦人が必死に援助を必要としているとき、身の危険な

どはあまり重きをおくべきじゃないね」

「君は心にもない立場におかれるんだぜ」

「うん、それも危険の中に入るのさ。あの手紙を手に入れるには他に手のほどこしようが

ないんだ。不幸な婦人は金を持っていない。それに彼女の周囲には信頼できる人間はひと

りもいないのだ。明日で猶予 ゆうよ 期間はきれる。今晩手紙を手に入れてしまわなければ、あ

の悪者は言葉どおり彼女を破滅させるだろう。だから僕は依頼者を運命の手にゆだねる

か、この最後の切り札を使うかしなけゃならないのさ。ここだけの話だがね、ワトスン

君、こいつはミルヴァートンと僕の決闘なのだ。ご覧の通り、最初の試合じゃ、あいつが

絶対勝っていたが、しかしね、僕は自尊心や名誉にかけて最後までたたかうよ」

「うん、僕はそういうことは好かないが、そうに違いあるまいね。で、いつ出かけよう

か」

「君は来ないほうがいいよ」

「それじゃ君も行くなよ。僕は面目にかけて約束する。……僕は今まで約束を破ったこと

はなかったね。……もしこの冒険に連れてってくれなければ、まっすぐに警察へ車を走ら

せて、訴えるよ」

「手助けにならないのだ」

「どうしてそんなことがわかるんだい? 何が起こるか君だってわからないじゃないか。

どの道、僕は決めたよ。君以外の人間だって自尊心もあり、名声だってあるのさ」

 ホームズは困っている様子だったが、すぐに顔を晴れやかにして、私の肩をぽんとたた

いた。
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06/27 00:41