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奸賊ミルヴァートン(5)
日期:2024-02-15 21:52  点击:233

 ホームズは足音を忍ばせて部屋をよこぎり、金庫をじっと見ていたが、やがて寝室のド

アに忍びより、首をかしげて熱心に聞き耳をたてた。室内からは何の物音もなかった。そ

の間、私は外側のヴェランダへ通ずるドアから安全に逃げられるようにしておくことが賢

明だと思いついたので、そのドアを調べてみた。驚いたことには、鍵もかけていなければ

掛け金もおろしていなかった。ホームズの腕に触れると、彼は覆面した顔をその方向に向

けた。私は彼がはっとなったのを見た。明らかに彼も私同様驚いたのである。

「うまくないぞ」彼は私の耳にぴったり口をよせてささやいた。「よくわからないが、い

ずれにせよ一刻も猶予はならないよ」

「何か手伝おうか」

「うん、ドアの所に立っててくれ。だれか来るのが聞こえたら、内鍵をおろしてくれ。そ

うすりゃ、またきのうのように逃げられる。べつのほうから来るとしたら仕事が終ってれ

ば、そのドアから逃げられる。仕事が終ってなくても、カーテンの後ろには隠れられる

よ。わかったかい」

 私はうなずいてドアのそばに立った。最初感じた恐れは消えさり、今は、私が法律への

挑戦者ではなく守護者であったときよりも、はるかに強い喜びに身をふるわせていた。わ

れわれの任務の高い目的や、それが利己的でなく騎土道から生まれたものであるという意

識や、わが敵の悪に満ちた人柄とかが、この冒険のスポーツ的興味をひとしお湧 かしてい

た。罪悪感などさらさらなく、私はこの危険を楽しみ興奮していた。はげしい驚嘆の念を

もって、私はホームズが複雑な手術をやっている外科医のような沈着な科学的正確さで、

道具箱を開き道具を選んでいるのを見守っていた。

 金庫をあけることが、ホームズには特別な道楽だということは知っていた。そして今そ

の腹中に、多くの美しい婦人たちの名声を呑みこんでいるドラゴンのごとき緑と金色の怪

物に立ち向かっているということが、彼にどれほど喜びを与えているかも私には理解でき

るのであった。

 外套を椅子の上にのせ、礼服の袖口を折りかえすと、ホームズは錐 きり を二本、鉄 かな てこ一

ちょう、合鍵をいくつか取り出した。私は真ん中のドアの所に立ち、まさかの用意に備え

て両側をかわるがわる見守っていた。だが本当の話、もし邪魔が入ったらどうしたらよい

かについては、何か漠然と考えていただけだった。三十分ほど、ホームズはひとつの道具

をおくと次を取りあげ、熟練した機械工のような強靭 きょうじん さと精密さで、ひとつひとつ扱

いながら一心不乱に働いていたが、ついにカチッという音が聞こえると、大きな緑色の扉

があけひろげられた。ざっと内部をのぞきこむと、おびただしい手紙の束がひとつひとつ

紐でしばってたばねられ、封印されて、上書きされていた。ホームズはその一枚を取りあ

げたが、火がちらつくので読みとるのはむずかしかった。ミルヴァートンが隣室にいるの

で、電気をつけるのは危険きわまりなかったから、ホームズは小さな龕燈 がんどう を取りだし

た。突然彼は手を休めると耳をすませ、即座に金庫の扉をしめると上衣をとりあげ、ポ

ケットに道具をつっこんで私にも身ぶりでしらせながら、カーテンの背後にとびこんだ。

私と彼とが一緒に隠れてから、彼の異常に鋭い感覚を驚かせた物音をようやく耳にしたの

である。

 どこかの室で物音がすると、遠くでドアがバタンとしまった。それからわけのわから

ぬ、にぶいつぶやきが聞こえ、それから規則的にどたばたという重い足音に変わって、す

ばやく近づいて来た。足音は、部屋の外の廊下だった。われわれのいる部屋の前で止り、

ドアがあいた。鋭いカチッという音とともに電気がつき、ドアがしめられた。すると強い

葉巻のひりひりするような煙がわれわれの鼻へ入りこんできた。続いてわれわれの数ヤー

ド前方を足音は行きつ戻りつし続けた。それでも最後に椅子のきしる音がして足音ははた

とやんだ。それからカチリと鍵がまわり、紙をさらさらめくる音が聞こえた。

 そのときまで私はのぞいてみる勇気はなかったのだが、ここまで来ると目の前のカーテ

シの割れ目をそっとのけてのぞいてみた。するとホームズが肩をおしつけてきたので、彼

ものぞこうとしているのがわかった。われわれの手がほとんど届きそうなほど近くに、大

きな円いミルヴァートンの背中が見えた。われわれは明らかに彼の行動を誤算していたの

である。たしかに彼は寝室などにいたのではなく、向こうの別棟にある喫煙室かビリヤー

ド室にいたのである。その室の窓は外からは見えなかったのだ。ある箇所は禿 げて光って

いる彼のごましお頭が、われわれの真前に見えるのであった。

 彼は赤革の椅子に深くもたれて両足を投げ出し、黒い葉巻を口から斜めに突き出してい

た。黒ビロードの襟 えり のついた赤紫色の喫煙服を着こんでいたが、軍服のように見えた。

手には長たらしい何か法律文書を持って、だらしない恰好で読んでいたが、読みながらも

口からは煙草の煙を輪にして吐いていた。彼の落ちつきはらった態度や心地よさそうな様

子から見ると、すぐ立って行く気配もなさそうだった。するとホームズの手が忍びより、

大丈夫だよと私の手を握りしめた。それはちょうど、万事好調で安心してよいといってい

るようであった。ところが私の位置からは実によく見えること……つまり扉は完全にしめ

きってなく、ミルヴァートンがいつそれに気がつくかもしれないということを、ホームズ

が知っているかどうか、私は気がかりだった。心中私は、ミルヴァートンの目はこまかい

から、間違いなくそれが目にとまるだろう。そしたらすぐに飛び出していって外套を頭に

かぶせて羽交締 はがいじ めにしてしまい、ホームズに逃げるすきをあたえようと決心していた。

 だがミルヴァートンは少しも目をあげなかった。彼はぼんやりと手にした書類を見や

り、弁護士の論告を追っていくように、次から次へとページをめくっていた。私は書類を

読みおえ、葉巻をくゆらしてしまったら、部屋へひきとるだろうと思っていた。ところ

が、どちらも終らないうちに事態は急展開して、われわれの考えとはまるで違った方向に

向かっていった。

 私は何度かミルヴァートンが懐中時計を見て、いらいらした様子で立ち上がったり坐っ

たりするのを見た。しかし、こんな変な時刻に彼が面会の約束をしていようなどという考

えは、ヴェランダからかすかな足音が聞こえてくるまで、さっぱり頭に浮かんではこな

かった。ミルヴァートンは書類を持った手をさげると椅子に坐りなおした。足音が続いて

聞こえてくると、やがて軽くドアをノックした。ミルヴァートンは立ち上がってドアをあ

けた。


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06/27 00:43