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奸賊ミルヴァートン(6)
日期:2024-02-15 21:52  点击:266

「さて」と、彼はそっけなく言った。「三十分近くも遅れましたよ」

 これこそドアに鍵が掛けられていず、ミルヴァートンが夜中まで起きていた理由だった

のだ。さらさらという女の衣 きぬ ずれが聞こえた。ミルヴァートンの顔がこっちを向いてい

たので、カーテンの割れ目をとじていたが、今度は充分気をつかい、もういちど思いきっ

てあけてみた。彼はまだ横柄 おうへい な様子でくわえた葉巻を口からつきだし、またぞろ椅子に

腰かけていた。彼の前には電光を全身にあびて、マントを首まできっちり着て、ヴェール

で顔をおおった背の高い、すらりとした黒髪の女性が立っていた。彼女の息づかいは次第

に激しくなり、華奢 きゃしゃ な身体が激情にふるえていた。

「そうですよ。あなたは私の夜の憩 いこい を台なしにしてしまったんですよ。何かそれだけの

ことはして下さるんでしょうな。ほかのときに来られなかったのですかねえ」

 女は首を振った。

「そうですか。できなきゃしょうがないな。公爵夫人がひどい主人なら、今こそ同じだけ

お返しのできるチャンスなんですよ、おやおや! どうしてふるえてるんですか? それ

でいいのです。しっかりしなさい。さて、それじゃあ仕事にとりかかりましょうか」

 彼は机の引き出しから一枚の手紙を取りだした。

「アルバート公爵夫人を窮地 きゅうち に陥 おとしい れるような手紙を四通もっていらっしゃるという

話ですが、あなたは売りたいし、私は買いたい。そこまではそれでいいんだが、あとは値

段を決めるだけだ、もちろん私は手紙を調べてみたい。もしほんとにそいつがよいもの

だったら、……おや? あなたでしたか」

 女はひと言も口をきかずヴェールをあげ、マントを顎 あご から下げていた。ミルヴァート

ンの前に向かいあっているのは、浅黒い、美しい、整った顔だった。そった鼻に、眉は強

く黒く、目はきびしくきらきらと輝き、真一文字に結んだ唇の薄い口にあやしい微笑を浮

かべていた。

「そうです、私です。……その生涯をあなたに破滅させられた女です」

 ミルヴァートンは大声で笑ったが、恐怖に声はふるえていた。「あなたは頑固 がんこ すぎま

したよ。どうして私にあんな極端なことをさせたんですかね? ほんとうに私は、自分で

は蝿 はえ だって傷つけることもしないんですよ。しかし誰にでも自分の仕事があります。で

すから、私がどうすればよかったというんですか。じゅうぶんあなたの払える範囲の値段

にしときましたがね。あなたがお払いにならなかったんですよ」

「それであなたは夫に手紙を送りつけましたのね。この世に生存したことのある人間で、

もっとも高貴な紳士であるあの夫、私がその靴の紐を結ぶ価値もないほど立派な夫は、気

高い心を傷つけられて死んでしまいました。私があのドアを通ってここに来た最後の夜の

ことは覚えていらっしゃるでしょう。私はあなたに慈悲を乞 いました。ところがあなたは

鼻先であざ笑いました。あなたは今も、あのときのように笑おうとなさっています。でも

あなたの臆病な心は、唇がふるえるのをとどめることができないではありませんか。そう

です、あなたはここでふたたび私に会おうなどとは夢にも思わなかった。でもあの晩、私

はどうしたらあなたにただひとり、面と向かえるのかを知ったのです。さあ、チャール

ミルヴァートン、何か言うことがおありですか」

「私をおどせるなどと考えなさるな」と、彼は立ち上がりながら言った。「私が声をあげ

さえすれば、召使いたちがとんで来て、あなたをつかまえることもできるのですからな。

だがあなたの怒りも、もっともだ。来たときのように即刻ここを立ち去りなさい。そうす

れば、私も言うことはない」

「私を破滅させたようなことをこれ以上させるもんですか、人の心を傷つけることも私だ

けでたくさんです。私は害毒をこの世から除いてあげるのです。お受け! この犬め!

それ! それ! それ! それ!」

 彼女はぎらりと光る小さなピストルを取り出していた。銃口を彼の胸元からわずか二

フィートとは離さず、次から次へと彼の身体にうちこんだ。彼は尻ごみしたが、次にテー

ブルの上にうつぶせにたおれ、ぜいぜい息をきらしながら苦しさのあまり、散らばった書

類の間をのたうちまわった。だがよろめき立つと、もう一弾をうけて、床にどっと転げお

ちた。

「やったな!」と叫んでそのまま動かなくなってしまった。女はじっと彼をみつめ、仰向

きになったその顔を踵 かかと で踏みにじった。もういちど彼を見たが、何の音も聞こえず、こ

とりとも動かなかった。はげしい衣ずれの音が聞こえ、あつい部屋に夜の空気が吹きこん

でくると、復讐者は立ち去って行った。

 止めだてしても、われわれはこの男を悲運から救うことはできなかったが、女がミル

ヴァートンのたじたじとなった身体に次々と弾をうちこんだとき、私はとっさにとびだそ

うとした。するとホームズが私の手首を冷たくしっかりとつかんでしまった。私はそのき

つく、おしとどめるような彼の手の言おうとしていることがよくわかった。つまりそれ

は、われわれには関係ないことであり、正義が悪をやっつけたのである。われわれには見

失ってはならぬ義務と目的があるということだったのだ。

 しかし女が部屋から出て行くや否や、ホームズはすばやく足音を忍んで、ドアに鍵をお

ろしてしまった。ちょうどそのとき屋内には人声が聞こえだし、急いで来る足音が響きだ

した。ピストルの音が家人を起こしてしまったのだ。ホームズは落ち着きはらって金庫に

すりよると手紙の束を両手一杯かかえて火中に投げこんだ。金庫が空になってしまうまで

次々に投げこみ続けた。だれかが把手をまわしてドアの外側をたたいた。ホームズはすば

やくあたりを見まわした。ミルヴァートンに死をもたらした手紙も、彼の血を点々と染め

てテーブルの上にあった。ホームズはそれも火の中に投げこんだ。外側のドアの鍵をとっ

て私を追いかけるように外に出ると、外から鍵をかけてしまった。

「こっちだ、ワトスン君。こっちからは塀によじのぼれるよ」


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