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奸賊ミルヴァートン(7)
日期:2024-02-15 21:53  点击:304

 私にはこんなにも早く警報がひろがるとは信じられなかった。ふりかえると巨大な家全

体がこうこうとあかりをともし、正面の扉は押しあけられ、人々が車道を門のほうへかけ

ていく。庭じゅうは人で活気づいていた。われわれがヴェランダから出て懸命に逃げだし

たとき、ひとりの男が「いたッ!」という叫び声をあげて、後ろから懸命に追っかけて来

た。ホームズは地理を熟知しているらしかった。彼はすばやく潅木の植込みをぬって走っ

た。私も彼にぴったりとくっついて走った。いちばん速い追跡者が後ろからあえぎながら

ついて来た。六フィートの塀がわれわれの行手をはばんでいたが、彼はてっぺんに飛び上

がって越えてしまった。私が飛び上がったとき、誰かが私のくるぶしをつかんだが、私は

けとばしてふりほどき、泥棒よけのガラスのはめこんであるてっぺんによじのぼり、飛び

下りるとやぶに顔をつっこんでしまったが、ホームズがすぐに立たせてくれた。われわれ

ふたりは広大なハムステッドの荒地をよこぎって逃げた。

 二マイルも走りつづけたかと思う頃、ついにホームズは立ち止って、じっと聞き耳をた

てたが、後はしんとして何の物音もしなかった。われわれは追跡者を振り切って無事に逃

げおおせたのであった。

 私がお知らせしためざましい経験の翌日、われわれは朝食を済ますと煙草をふかしてい

た。そこへロンドン警視庁の刑事レストレイド氏がひどくもったいぶった顔で、質素なわ

れわれの居間に入って来た。

「お早うございます、ホームズさん。今とってもお忙しいでしょうか?」

「いや、それほど忙しいわけじゃないから、どうぞ」

「もし何か特別なものを手がけていらっしゃるのでなければ、ひどく立派な事件があるん

ですが、ご協力願えませんか。そいつがまた昨晩ハムステッドでもちあがったばかりなん

でしてね」

「ほう! 何ですか」

「殺人です。それがまったく劇的な立派な殺人事件でしてね。あなたがこうした事にはと

ても熱心だと知っているものですから、アップルドータワーズまでご足労ねがって、い

ろいろ忠告を与えて下されば幸せと存じますが。ちょっと変わった犯罪でしてね。われわ

れも殺されたミルヴァートン氏には何度か目をつけていましたがね。これは内輪話です

が、ちょっとした悪党なんですよ、いつも脅喝 きょうかつ に使う書類を持っているので音にも聞

こえていました。そうした書類は全部犯人に焼かれてしまったんです。価値のあるものは

何も盗られていません。というわけで、たぶん犯人は上流階級の人間でしょう。その目的

は社会的暴露をふせごうとしただけだったのでしょうね」

「犯人どもというと、じゃ二人いたんだね」

「そうです。二人だったのです。二人とも、もう少しで現場でつかまるところだったので

す。彼らの足跡も人相もわかっています。十中八、九は捜索できると思います。最初の奴

は少し元気がよすぎましたが、次の奴は庭師の手伝人がつかまえたんですが、もがいたあ

げくやっとこさ逃げて行きました。そいつは中背でがっしりした男です。顎が角ばり、首

がふとく口髭をはやして覆面をしていました」

「ちょっとよくわからないですね。ああ、ちょうどワトスン君の人相のようなんでしょう

ね、そいつは」とホームズが言った。

「まったくそうですね」と警部はひどく面白がって言った。「ワトスンさんの人相によく

似ていますね」

「そうかねえ。しかしお手伝いはどうもできかねますよ。レストレイドさん」とホームズ

が言った。「それはね、僕はこのミルヴァートンて奴を知っているし、ロンドンじゅうで

いちばん危険な奴だと思っていた。それにね、法律が介入できない種類の犯罪もあるん

じゃないだろうか。ある程度は私的な復讐も正しいのだと思いますね。いや、議論しても

しょうがない。僕はきめたよ。被害者に同情するより加害者に同情しますよ。だから今度

の事件には手を出しませんよ」

 ホームズはわれわれの目撃した悲劇については、ひと言も話をしなかった。だが私は午

前中ずっと、彼がとても考えこんでしまっているのを見ていたし、彼の目はぼんやりとし

て気もそぞろな様子から、何かを思いだそうとしているのだという印象をうけた。彼は昼

食をとっている最中に、突然はっと立ち上がった。

「おい、ワトスン君。わかったよ! わかったよ!さあ帽子を持って一緒に来たまえ」

 彼はできる限りせかせかとベイカー街を出て、オックスフォード街を通りぬけ、リー

ジェントサーカスのすぐ近くまで歩いて行った。左手に当時の有名人や美人の写真を

飾ったウィンドウがあった。ホームズの目は、その中のひとつにじっとそそがれていた。

彼の視線を追っていくと、宮廷服を着た、れっきとした美人が目にとまった。高貴な頭に

は高価なダイヤモンドの飾りをつけていた。私はすんなりと反 った鼻や、目にたつ眉毛

や、一文字に結んだ口や、その下の強い小さな顎などを見た。すると私は、あっとかたず

をのんだ。偉大な貴族であり政治家でもあった人物の立派な称号を読み、彼女がその男の

妻であったことを知ったからであった。私はホームズと顔を見合わせたが、彼は指を口に

あててみせた。そのまま私たちはそのウィンドウから立ち去った。


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06/27 00:45