「私は泥棒が入って来ます前に見かけたのでございます。寝室の窓の側に坐っております
と、門の近くで三人が立っているのが、月明かりで見えましたけれども、そのときはべつ
に気にもなりませんでした。奥様の叫び声を聞いたのはそれから一時間以上たってからで
ございます。私は急いで駈け降りて行きました。奥様は、お話にもありましたように、手
足を縛られていらっしゃいました。それに旦那様は部屋じゅう血だらけにして倒れてい
らっしゃいました。しばられて、服に旦那様の血を浴びていらっしゃれば、どんな女でも
正気を失うものですが、奥様はアデレイド市のメアリ・フレイザーお嬢さま、アビ農場の
ブラックンストール夫人だけのことはありまして、勇気をお持ちでした。平常の態度をお
崩しにならなかったのでございます。もうこれで奥様のお話は充分でございましょう。こ
のタリーザがお部屋へお連れいたしたいと思います。奥様には休息が大切です」
母親のような優しさで、やせた女中は夫人に手をまわし、その部屋から連れ出した。
「あの女中は、これまでもずうっと夫人と一緒にいました」とホプキンズは言った。「夫
人が赤ん坊のときからついていて、十八か月前、夫人がオーストラリアを去って、イギリ
スへ来るときも連れて来たそうです。名前はタリーザ・ライトというのですが、今どきあ
んな女中はちょっと見当たりませんね。ホームズさん、ではこちらへ」
ホームズの表情に富んだ顔から、はげしい興味が失って見えた。神秘ということに関す
る限り、この事件の魅力はことごとくなくなっていた。そこには逮捕という目的は果たさ
るべきだが、ホームズが手をつけるには何と平凡な悪漢どもではないか。深遠な学識ある
専門医が、麻疹 はしか の患者に呼ばれたとわかればむしろ迷惑に思うだろう、そういう気持を
私はホームズの目に読んだのである。しかしアビ農場の食堂の光景は、彼の注意をひき、
薄れてきた彼の興味を呼び戻すには充分な不思議さを備えていた。
それは天井の高い、大きな部屋で、彫刻つきの槲 かしわ の天井、槲の羽目板があり、周囲の
壁には、立派な鹿の頭や古代の武器がずらりと並んでいた。入口の向かい側に、問題のフ
ランス式の窓があった。右手にはそれより小さな窓が三つあり、冷たい冬の日ざしが射し
こんでいた。左手には大きな深い暖炉があって、どっしりした槲のマントルピースが張り
出してあった。暖炉のそばに肘かけと、下に横棒のある重い槲の椅子があった。そこに濃
紅色の紐が、下の横木に両端を結ばれながら、椅子の木細工の部分にからみついていた。
夫人をとき放つ際に、こうなったのであろうが、その結び目はまだ残っていた。
もっとも、こうした細かい点は、後日にわれわれの注意を引いたのであって、今はもっ
ぱら、暖炉の前の虎皮の上に横たわっている、戦慄 せんりつ すべき死体の上に、吸い付けられて
いた。
死体は、四十歳くらいの背の高い、見かけのよい男であった。仰向けに倒れていて、短
く刈った髭の間から、白い歯がむき出ていた。二つのこぶしは、頭の上に置かれており、
近くに重い《さんざし》の杖がころがっていた。浅黒い、美しい鷲 わし のような風貌は憎し
みに歪んでいたが、それがいかにも恐ろしい鬼のような表情を示していた。叫び声を聞い
たときは、明らかにベッドにいたものらしく、しゃれた、刺繍 ししゅう のある夜のシャツを着
て、ズボンから素足が出ていた。頭にはひどい傷を受けていた。部屋全体に、野蛮な残忍
な暴力の痕跡があった。死体の側に、曲がった重い火掻棒がころがっていた。ホームズ
は、それと、それに打たれた頭の傷を調べた。
「父親のランドールはよっぽど力の強いやつだね」
「そうです。記録はいくつかありますが、手剛 てごわ い奴ですよ」ホプキンズは言った。
「でも、逮捕するのは、さほど困難じゃあないね」
「ありませんとも。あの男には、これまでも警戒しておったのですが、アメリカに逃げて
行ったという話もありました。でも、ここにいることがわかったからには逃がしはしませ
ん。各海港からの情報は入ることになっていますし、晩までには懸賞金のことも発表され
るでしょう。でも夫人に人相を覚えられて、われわれに何者だかの判別がつきそうなのを
知っていながら、どうしてあんなことをやったのでしょうね」
「そうだよ。普通なら奥さんのほうも一緒に黙らしちゃうものね」
「でも夫人が意識を回復したのがわからなかったのかも知れないね」と私が意見を挟ん
だ。
「あり得ることだね。無意識でいるものを、わざわざ命を取ることもなさそうだね。で、
ホプキンズさん、この死んだ男について何か情報でも? 何か妙な話を聞いたことがある
ように思うんですよ」
「この男は、素面 しらふ のときは善人なんですけれど、飲んだときはまったくの別人になるん
です。でも腹一杯にのむことはごく稀 まれ なんでして、むしろ生酔いのときにやり出すんで
す。そんなときはまるで悪魔に取りつかれたみたいに、どんなことでもやります。聞くと
ころによると、地位も財産もありながら、われわれの所へ厄介になろうとしたことも、一
度や二度はあるそうです。一度などは犬に石油を浴びせて、それに火をつけたということ
がありました。悪いことに、それが夫人の犬でしたので、やっとのことで、もみ消しにし
たそうです。それから女中のタリーザにワインの壜 びん を投げつけたことがあって、それは
だいぶん問題になったようです。要するに、ここだけの話ですが、この男がいないならこ
の家はもっと明るくなるでしょう。おや、あなたは何をそう見てらっしゃるのですか」
ホームズは膝をついて、夫人の縛られていた赤い紐の結び目を、いとも注意深く調べて
いた。それは、ベルの紐を泥棒がひきちぎったときのもので、その切れてほつれたところ
を、慎重に吟味していた。
「この紐を引けば、台所でカランカラン鳴りひびくだろうがね」ホームズは言った。
「誰にも聞こえませんよ。台所はちょうどこの裏手にあたるんですからね」
「誰にも聞こえないって、泥棒はどうして知ったのだろう? どうしてあんな向こう見ず
なやり方で、ベルの紐をひきちぎったんだろう?」
「それですよ、ホームズさん。私も何度もそのことを考えてみたんです。あの連中は、家
の様子や習慣を知っていたに違いありませんよ。召使いたちが割合早く寝てしまうこと
や、台所でベルが鳴っても、誰にも聞こえるわけがないってことをですね。だから、召使
いの一人と内密なつながりを持っているに違いありません。たしかですよ。でも召使いは
八人いますが、みな性質がいいんです」
「他のことがみな平等なら、主人に酒壜を投げつけられた女中がいちばん怪しくなるわけ
ですね。しかしそうだと、今までこの女中が尽してきた夫人への裏切りということにな
る。でもまあ、その点は小さなことです。ランドールを捕えれば、共犯をあげるのにさし
て困難はないでしょう。夫人の話に確証が必要ならば、目の前にあるもので、確かめられ
るというものですよ」