さて、もしこの手紙が紛失したのなら……いや、紛失などするわけはないんだ……紛失
したのでないとすれば、どこにあるのだろう。誰が持っているのだろう。なぜ、抑えてい
るのだろう。僕の頭の中を、ハンマーのように打ち鳴らしているのは、この問題なのだ。
ルーカスが、手紙が紛失した晩に殺されたというのは、まったくの偶然なのだろうか。彼
が手紙を手に入れたのだろうか。もしそうなら、なぜ彼の書類の中になかったのだろう。
あの気ちがいの奥さんが持って行ったのだろうか。とすれば、パリの彼女の家にあるのだ
ろうか。フランス警察に疑念をおこさせないで、彼女の家を捜索することができないだろ
うか。これは、ワトスン君、犯罪よりも法律のほうがわれわれには怖しい例だよ。あらゆ
る人間の手が僕らに逆らっている。しかし、一か八 ばち かの賭でやる利益は莫大なんだ。も
し僕が首尾よい結末をつけることができれば、わが生涯に無上の光栄を浴びせられること
になるんだ。おや、最前線から最新の情報が来た」
彼は届けられた短い手紙に急いで目を通して、「やあ、レストレイド警部が面白い情報
を持ってきたよ。ワトスン君、帽子をかぶりたまえ。一緒にウェストミンスターへ行って
みよう」
犯罪の現場を見るのは、私は初めてであった。……高く煤 すす けた幅の狭い家で、あたか
も建てられた世紀にふさわしく、堅苦しく取りすました形をしていた。レストレイドのブ
ルドッグ面 づら が、正面の窓から私たちを見ていたが、大柄の警官がドアを開けて中に入れ
たとき、暖かく迎えてくれた。
通された部屋が凶行現場であったが、絨毯の上に不規則な醜い《しみ》があるほか、何
の形跡もなかった。この絨毯は部屋の中央にあって、小さな正方形のインド製の粗製絨毯
であった。その周りにはよく磨かれた正方形のブロックを組み合わせた、古風な美しい木
の床が幅広く出ていた。
暖炉の上方にすばらしい戦利品の武器があって、そのひとつが凶行の際に用いられたの
である。窓の所には高価な書き物机があり、その他、室内にあるこまごまとしたもの、
絵、敷物、壁掛けなどはみな、柔弱に見えるまでに豪奢 ごうしゃ をきわめていた。
「パリ電報を見ましたか」レストレイドがたずねた。
ホームズはうなずいた。
「今度はフランスの連中が手早くやったようですな。実際、彼らの言う通りですよ。彼女
がドアをノックする……二重生活は完璧なものと彼は思っていたのだから、この不意の訪
問に驚く。彼は彼女を中に入れる……まさか道路に立たしておくこともできないですし
ね。彼女はどうやって、彼をつきとめたかを話して、責める。彼は次から次へと小言を頂
戴して、ついには手近のあの懐剣でやられてしまう。でも一遍にやり遂げたわけではな
い。椅子は向こうのほうへ片づけられているし、彼はそれで彼女を払いのけようとして、
椅子をつかんでいました。これでみな、見てきたようにはっきりしてきましたよ」
ホームズは眉をあげた。
「それなのに、私を呼んだのですか」
「そうです。別の問題があるんです……つまらないことですがね、でもあなたが興味をお
持ちになると思って。奇妙なんですよ、とんきょうだと言われるかも知れませんがね。本
筋とは関係がない……見たところ、あり得ないことなのです」
「何なのでしょう」
「この種の犯罪の後には、現場保存には注意を払っていますから、何ひとつ動かしてあり
ません。係員がここへ来て、昼も夜も管理に当っています。今朝、死体も埋葬しました
し、この部屋に関するかぎり調査も終りましたので、少し片づけようと思っていました。
ところがこの絨毯! そこにおいてあるだけでとめていないのです。何かのきっかけでそ
れを上げようとしましたら……」
「何かを発見したのですか」ホームズの顔は緊張した。
「僕たちの発見した物は、いくらあなただって、百年考えても推測できませんよ。絨毯に
《しみ》がございましょう。多量の出血があったと思われませんか」
「もちろん、そうに違いありません」
「でも、絨毯の《しみ》に相当する部分の白い木の床には、《しみ》はないのですよ」
「《しみ》がない! しかしそんなはずは……」
「そうです。そうおっしゃるでしょう。ところが事実はないのです」
レストレイドは、絨毯の隅をつまみあげ、それをひっくり返して自分の言ったことを実
証して見せた。「でも、絨毯の裏は、表と同じように《しみ》があるでしょう。これなら
ば、床にも《しみ》がつくはずですよ」
レストレイドは、有名な探偵家を困らしたのが嬉しいらしく、含み笑いをした。
「では、私が説明してみましょう。床に第二の《しみ》はあるのですが、上の絨毯のやつ
と一致しないのです。ご自分でご覧なさい」
彼は言いながら、絨毯の他の隅をめくった。たしかに、四角い白い木の面飾りのある古
風な床に、深紅 しんく の血のあとが、大きく残っていた。
「ホームズさん、これをどうお考えになります」
「それは簡単ですよ。ふたつの血痕は一致していたのですが、絨毯のほうをぐるっとまわ
したのですよ。四角形で、床に何もとめてないのですから、簡単にできたわけです」
「絨毯をまわしたくらいのことで、わざわざ、あなたにご足労を願ったのではないので
す。まわしてみれば、お互いに《しみ》が一致しているのですから、これは明らかなこと
です。でも私の知りたいことは、誰が置き換えたかということ、そして、なぜそうしたか
ということなのです」
ホームズが内心の興奮に動揺しているのは、そのこわばった顔から見てわかった。 分享到: