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「やっぱり雨なんだ」
京都駅の烏丸口を出て、明日香は小さく肩をすくめた。
梅雨はまだ明けてないのだから、京都も雨で当たり前、そう自分に言い聞かせながら、烏丸通を北に向かって歩いて行く。
傘に当たる雨音が徐々に強くなった。信号待ちをする明日香の足に、地面から容赦なく雨粒が跳ね返る。『鴨川食堂』の玄関先に立って、明日香は傘をつぼめ、大きく深呼吸をした。
「いらっしゃい。また雨になったねぇ」
引き戸を開けて、こいしが明日香を迎え入れる。
「こんにちは。お世話になります」
明日香は赤いレインコートを脱いで、壁のフックにかけた。
昼を過ぎて、客が帰った後なのだろうか。がらんとした店の中だが、いくらか人の気配も残っている。前回もそうだったが、客の姿は見かけないのに、なぜか人の温もりが感じられる。不思議な店だと、明日香は改めて感じた。
「よかったら使うて」
こいしがタァ‰を差し出した。
「ありがとうございます」
明日香がストッキングの水滴を拭った。
「お腹すきましたやろ。すぐにご用意しますんで」厨房から出て来て、流が白い帽子を取った。
「よろしくお願いします」
下げた頭を明日香が起こすと、流は笑顔を残して厨房に戻って行った。
タァ‰をこいしに返して、明日香はパイプ椅子に腰かけた。
「お祖父ちゃんに変わりはないの?」
こいしが清水焼の急須を傾けた。
「一昨日、会いに行ったんですけど、やっぱりわたしのことがわからないみたいで」明日香が顔を曇らせた。
「辛つらいねぇ」
こいしが情を寄せた。
厨房からフライパンを振る大きな音が聞こえて来て、香ばしい匂いも漂い始める。気を取り直したように、こいしは明日香の前にピンクのランチョンマットを敷いて、その上にフォークを載せた。
「こいし、そろそろ出すさかい、エプロン付けたげてくれるか」厨房から流が叫んだ。
「お洋服を汚さんようにせんとね」
ベージュのワンピースを着た明日香の後ろから、こいしが白いエプロンを付け、首の後ろで紐ひもを結ぶ。何が始まるのかと、明日香は少しばかり戸惑いを覚えた。
「お待たせしましたな」
流が急ぎ足で銀盆を運んで来た。
「ソースが跳ねますさかいに気ぃ付けてくださいや」ランチョンマットの上には、木皿の上に載った丸い鉄板が置かれ、ジュージューと音を立てている。明日香は無意識に背中を反らせた。
「熱い内に召し上がってください。今日は火傷せんように」傍らに立つ流が明日香に笑みを向けた。
「これ……」
明日香が大きく目を見開いた。
「思い出さはりましたか。お祖父さんと一緒に食べはったんは、たぶんこんなスパゲッティやったと思います。存分に召し上がってください」タバスコの小瓶をテーブルに置いてから、銀盆を小脇に挟んで、流が厨房に戻って行く。
「お冷や置いときますよって」
氷水の入ったグラスとピッチャーをテーブルに置いて、こいしが流の後を追った。
熱した鉄板に載せられているのは、ケチャップにまみれた赤いスパゲッティだが、一面に玉子が敷いてあるので、黄色も目立つ。縦割りにされたウィンナーが三つほど飾られている。明日香は合掌し、急いでフォークを取った。
「熱い」
スパゲッティを口に運んですぐ、明日香が顔をしかめた。
鉄板の上で湯気を立てているスパゲッティは、普通のパスタとは比べものにならないくらいに熱い。口中を火傷しそうだが、美味しさが先に立ち、冷めるまで待つことなど出来ずにいる。
「美味しい」
小さくつぶやいて、明日香はフォークを止めることなく食べ続けた。
フォークでウィンナーを刺して口に運ぶと、パリっと皮がはじけた。時間が経たつに連れ、玉子に火が通ってゆく。薄焼き玉子でスパゲッティを包んで、明日香が口に運んだ。
「ァ∴ライスみたい」
ひとりごちた明日香の頰を涙が伝った。
知一郎と過ごした時間ばかりが思い出される。小学校の入学式。中学、高校になっても、いつも傍らに居たのは父でも母でもなく、祖父の知一郎だった。
「どうやら間違うてなかったようですな」
流が厨房から出て来た。
「はい」
短く答えて、明日香がハンカチで頰を拭った。
「正確に言うとナポリタンやのうて、イタリアンと呼ぶんやそうです。名古屋にある『しぇふ』という店のメニューでした。と言うても、この店のメインは名古屋名物の〈餡あんかけスパゲッティ〉ですけどな」
「名古屋だったんですか」
明日香には予想外の地名だったようだ。
「そのときの旅行は、おそらく、こんなコースでしたんや」流がテーブルに地図を広げて続けると、明日香とこいしが覗き込んだ。
「旅の目的地は三重県の鳥羽やったと思います。おそらく水族館にでも連れて行かはったんでしょう。たいていの子供は喜びますわ。海のそばのホテルに泊まって、船に乗ったとなると、こういうルートやないかと」
流が地図に赤い線を引いた。
「泊まったのは伊い良ら湖ご、ですか」
明日香が不思議そうに言った。
「電気が見えたのは、たぶん電照菊のことやと思います」「デンショウギク?」
同時に声をあげて、明日香とこいしが顔を見合わせた。
「渥あつ美み半島の名物っちゅうか、名産品ですわ。菊を温室で栽培するんですけどな、一晩中電気を赤々と点けておいて育てます。そうして開花の時期を調節するんやそうです。こうして見たら綺き麗れいな夜景ですやろ」タブレットに指を滑らせて、流が電照菊の写真を見せた。
「こんな感じだったかな……」
明日香は半信半疑のようだ。
「何かの事情で夜遅い出発やった。あなたを船に乗せてあげたかったんでしょう。豊橋でレンタカーを借りて、伊良湖で一泊。翌朝フェリーで鳥羽へ行き、一日遊んで名古屋まで車で戻る。そんな行程やったんやないかと」
「電照菊か。そう言うたら学校で習うたような気もするわ」腕組みして、こいしが首を縦に振った。
「鳥羽から伊勢湾沿いに車で北上して、名古屋に着きます。ここでレンタカーを返して、新幹線で浜松へ帰る。その前にスパゲッティ屋さんへ行かはった。お祖父さんは、美味しいもんに目がなかったんでしょう。旅の最後をこの店で締めくくりたいと計画されてたんやと思います。子供の好きそうなメニューです。きっとあなたに食べさせたかったんですやろな」
流がディスプレイに指をスライドさせて、店の写真を表示させた。
「このお店だったんですか」
明日香が感慨深げに目を細めた。
「わざわざ名古屋で乗り換え時間に余裕を作って、この店に行く人も多いんやそうです。
料理の名前はナポリタンやのうてイタリアン。溶き卵を鉄板に敷いて、その上にナポリタンを載せた料理を名古屋ではイタリアンと呼ぶみたいです。黄色のイメージは、この溶き卵のせいですやろな。お祖父さんが写真に収めはった赤い瓶はこれ。タバスコの巨大な瓶。わしも思わずデジカメで撮ってしまいました」タブレットの写真を次々とスライドさせながら、流が明日香に説明を加えた。
「タバスコだったんだ」
明日香がタバスコの小瓶を手に取って、ディスプレイの画像と見比べた。
改めてフォークを手にした明日香は、鉄板に残ったスパゲッティを丁寧にさらえる。鉄板にこびり付いた玉子をこそげ、一本も残さずにスパゲッティを食べ切った。
しばらくは空になった鉄板をじっと見つめ、やがて両掌りょうてを合わせた。
「ごちそうさま」
見届けて流が訊ねる。
「お祖父さんは今おいくつです?」
「先月七十五になりました」
明日香が答えた。
「まだまだお若いですがな。このスパゲッティが何かのきっかけになりますやろ」「そうだといいのですが」
明日香がか細い声で言った。
「お店まで連れてあげるのが一番やが、それが無理やったら、あなたが作ってあげなはれ。鉄板と材料の一式を用意しときました。レシピてなほど、たいそうなもんやおへんけど、料理の作り方も書いときましたさかい」
流が目で合図すると、こいしが紙袋を明日香の横に置いた。
しばらく目を細めてから、想いを断ち切るかのように、すっくと立ち上がった明日香は、ふたりに深々と頭を下げた。
「本当にありがとうございました。お支払いの方を」明日香がバッグから財布を取り出した。
「お気持ちに見合うた金額をこちらに振り込んでください」こいしがメモ用紙を渡した。
「わかりました。帰ったらすぐに」
「まだ学生さんなんやから、ホンマに気持ちだけでええんよ。無理せんとってね」こいしが明日香に笑みを向けた。
「お気遣いありがとうございます」
ふたりに頭を下げ、赤いレインコートを羽織って、明日香が引き戸を開けた。
「これ、入って来たらアカンよ」
敷居に足を掛けたトラ猫をこいしが牽けん制せいした。
「雨に濡れちゃって可哀かわいそうに。なんていう名前ですか?」明日香が屈み込んだ。
「ひるねて言うんです。いっつも眼めをつぶって寝てるみたいやから」こいしも隣に屈んだ。
「雨、あがったみたいやな」
流が掌を空に向けると、薄日が差して来た。
「ひとつ、お訊きしてもいいですか」
立ち上がって、明日香が流の目を真っ直ぐに見た。
「なんです?」
流がその目を見返す。
「祖父と一緒に食べた料理はたくさんあるのに、わたしは何な故ぜあのスパゲッティが気になっていたんでしょう」
明日香が訊いた。
「あくまで、わしの推測ですけどな」
ひと息ついて、流が続ける。
「五歳にならはって、お祖父さんがあなたを一人前の人間として扱わはるようになった、初めての旅やったからと違いますかな」
流の言葉に、明日香はハッとしたように、大きく目を見開いた。
「きっとそれまでは、ひと皿の料理を分け合うて食べてはったのが、この旅からはあなたを一人前の人間として見はるようになった。その証あかしが、ひと皿のスパゲッティやった。自分の前に、自分だけの料理がある。よっぽどそれが嬉しかったんですやろ」「……」
明日香は言葉を捜して、見つけることが出来ずに居るようだ。
「美味しいものを食べたら涙が出て来るようになった。それも同じ理由やと思います。おそらく、旨いもんを食う楽しみだけやのうて、感謝する気持ちやとか、大切なことをお祖父さんが教えはったんやないですかな。それが無意識にあなたの記憶の片隅に残ってたんでしょう」
流の言葉に明日香が瞳を潤ませた。
「お祖父ちゃんによろしゅう」
こいしが明日香に笑みを向ける。
「ありがとうございました」
深く腰を折ってから、明日香が歩き始めた。
流とこいしはその背中を見送った。
「よう見つけたなぁ。さすがはお父ちゃんや」店に戻って、こいしが片付けを始める。
「五歳の子供には楽しい旅やったやろうな。子供を育てるのは親だけと違うんや」話し終えて、流が茶を啜った。
「うちはお祖父ちゃんと一緒に旅行なんかしたことなかった」片付けの手を止めて、こいしが宙を見つめた。
「ァ′ジはわし以上に仕事人間やったからな。なんぞ言うたら《そもそも警察官ちゅうもんはな》から長い説教が始まる。わしもァ′ジと旅行した覚えはないわ」流が居間に上がり込んだ。
「そう言うたら、お父ちゃんと旅行したこともほとんどないなぁ。いっつもお母ちゃんとふたりやった」
「警察官は年中無休や。ァ′ジからそう言われてたさかいに、掬子があないなるまで、家のことは放ったらかしやったな」
流が仏壇の前に座った。
「何もかもお母ちゃんまかせ。ホンマにお母ちゃん、ようやってくれはったわ。ディズニーランドも動物園も、海水浴も山登りも、どこ行くのもお母ちゃんとふたり。けど、なんにも寂しいことなかった。とっても楽しかったよ、お母ちゃん」流の隣に座って、こいしが仏壇に手を合わせた。
「今夜はどこぞへ旨いパスタでも食べに行こか」線香を立ててから、流が腰を上げた。
「うちは久しぶりに、お父ちゃんのナポリタンが食べたいんやけど」こいしが上目遣いに流を見た。
「嬉しいこと言うてくれるやないか。よっしゃ。鉄板もあるこっちゃさかい、あのイタリアンにしたるわ」
流が腕まくりをした。
「鉄板て、明日香さんに渡したんと違うん?」立ち上がってこいしが訊いた。
「あれな五個セットで買うたんや。ふたつ渡したさかい三つ残ってる。どや? 浩さんも呼ぶか?」
「ええなぁ。そうしよ。合いそうなワイン買うて来るわ」こいしがエプロンを外した。
「安いのでええで。今夜は質より量や。掬子も飲みたがっとるやろからな」流がこいしに財布を渡して、仏壇を振り向いた。