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第三卷 第一話  かけ蕎麦 2_鴨川食堂(鸭川食堂)_日语阅读_日语学习网
日期:2024-10-24 10:29  点击:3336
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  前回と違って、JR京都駅から歩きはじめた左京は、迷うことなく『鴨川食堂』に辿たどりついた。
  「ひるねちゃん、元気だった?」
  屈かがみこんで、左京がひるねの喉を撫でた。
  「覚えてくれてはったんですね」
  店から出てきたこいしが左京に並んだ。
  「子どものころから猫好きでしてね。でも、うちも父が生き物は飼わないという方針でしたから」
  「なんでですのん? お能とペットは関係ありませんやん」「能は声が大事なんです。きっと猫の毛が気になったんでしょうね」「厳しいもんやねぇ。まぁ、どうぞお入りください」こいしが招き入れた。
  「ありがとうございます」
  左京が敷居をまたいだ。
  「ようお越しくださいましたな」
  迎え入れて、流が笑顔を見せた。
  「ずいぶんとご苦労をおかけしたようで」
  「最初は雲をつかむような話で難儀しましたけど、なんとか辿りつけたと思うてます」「愉たのしみにしてまいりました」
  「すぐに用意しますんで、ちょっと待ってくださいや」流が厨房に入っていった。
  「左京さんて、すごいダンサーなんですね。ちょっと調べさせてもろたんですけど、ニューヨークやとか、ロンドンでも公演してはるんやて、びっくりしました」「ありがとうございます。ダンスは能楽と違って世界共通ですからね。物珍しさだけで観られないのが嬉しいんです」
  「難しいことは、よう分かりませんけど、お父ちゃんが捜してきはった、かけ蕎麦が合うてたらええなぁと思うてます」
  こいしがテーブルに湯呑みを置き、萬ばん古こ焼やきの急須から茶を注いだ。
  「よく捜しだせましたね。半分以上あきらめていたのですが」「お父ちゃんは絶対あきらめへん人やから」
  こいしが胸を張った。
  「うちの父も同じです」
  左京は表情を固くした。
  「お待たせしましたな。ほんまに、なんの愛想もない蕎麦でっせ」流がテーブルに置いた染付鉢からは、もうもうと湯気が上がっている。
  「いい香りだ。たしかにこんな匂いだったと思います」湯気に顔を近づけて、左京がうっとりと目を閉じた。
  「どうぞ、ゆっくり召し上がっとぅくれやす。て言うても、蕎麦だけですけどな」「心していただきます」
  手を合わせて、左京が箸を取った。
  「合うとったら、ええんですが」
  流の視線に気付いたこいしが、厨房に入っていき、流もそれに続いた。
  左京はしばらくの間、箸を持ったまま、蕎麦をじっと眺めていた。
  端正な蕎麦。澄み切った出汁。潔いまでに、ただそれだけしか鉢に入っていない。その佇たたずまいはあのときと同じ。鉢を持ち上げようとして、あまりの熱さに指先を耳たぶに当てたのもまったく同じ。
  胸を高ぶらせながら、左京は箸で蕎麦をたぐった。
  「一緒だ」
  左京がひとりごちた。
  今度はおそるおそる鉢の底に手を入れ、親指を鉢の上に当て、出汁をすすった。
  「一緒だ」
  同じ言葉を繰り返した。
  味だけでなく、蕎麦の佇まいまでもが、あのときと同じなのはなぜなのかと考えて、器が同じなのだろうと左京は思い当たった。記憶が定かでない上に、器のことには詳しくないから断定はできないが、おそらく間違いない。
  あらためて、器を眺めてみる。白地に藍色で花が描かれている。牡ぼ丹たんだろうか。
  花の周りには葉っぱや蔓つるらしきものも描かれている。記憶がよみがえって来た左京は、出汁を飲み、小さくため息をついた。
  しんと静まり返った食堂の中で、左京が蕎麦をすする音だけが響く。
  蕎麦を食べ終えた左京は、両手で鉢を持ち、ゆっくりと出汁を飲んだ。
  まるで薄茶を喫するように、最後は音を立てて、出汁を飲みきった。
  「やっぱり」
  空になった鉢の底に描かれた〈福〉の文字に目を落とした。
  それを合図とするかのように、流が厨房の暖簾をくぐって、左京の傍らに立った。
  「どないでした?」
  「まったく一緒でした。こんな蕎麦でした」
  「よろしおした」
  ホッとしたように流が顔を丸くした。
  「驚きました。完璧です。いったいどうしてこれを?」「お父さんにお訊きするのが一番早いんですけど、それはあきませんわなぁ」流が苦笑いした。
  「『若宮』もなくなってしまっているのに、なぜこんな器まで?」左京が空になった染付鉢を手に取った。
  「やっぱり、これでしたか」
  流がにやりと笑った。
  「わたしの記憶に間違いがなければ」
  左京がハンカチで首筋の汗を拭った。
  「正直にお話ししますわ」
  流が左京と向かい合って座った。
  「ホンマのこと言いますとな、今日お出しした蕎麦は、すべてわしの想像なんですわ」「想像?」
  「料亭というのは厄介なもんでしてな」
  流が色あせた写真を見せた。
  「そうそう。この店です。なんだか懐かしいなぁ」左京が写真に顔を近づけた。
  「その『若宮』の女将さん、今は水道橋で『こうらく』という、小料理屋をやってはるという話を聞いて、すぐに行ってみましたんや」流が『こうらく』の写真を横に並べた。
  「コの字型のカウンターだけの店でして、十人も入れんような狭い店は満席に近かったですわ。女将さんはカウンターの中に立って、お酒を注いだりしてはりました」「あんな立派な料亭の女将さんが、こんな小さな料理屋で」左京が『こうらく』の写真を手に取った。
  「一杯飲みながら『若宮』のころのことを尋ねてみたんですわ。もちろん、お父さんのことも、あなたのことも、ようようご存じなんやろけど、わしが訊いても何もお話しになりませんのや。ストレートに蕎麦のことを訊いたんがいかんかった。料亭の中でのことは一切言えん、ということやろと思います。京都の祇園でも同じようなもんやさかい、それ以上は突っ込めませんでした」
  「そうでしたか」
  左京が短く返した。
  「取り付く島ものうて、困り果てとったら、隣に座ってはったお客さんが『若宮』の常連客やったそうで、助け舟を出してくれはりましたんや。蕎麦は食べたことがない、と言うてはったんですが、『若宮』の料理のことをあれこれ教えてくれはったんです」「お父ちゃんの執念が通じたんやね」
  こいしが嬉しそうに写真を覗きこんだ。
  「でも、それだけで、ここまでは……」
  左京が首をかしげた。
  「『こうらく』は『若宮』時代のお客さんがようけ来たはるみたいで、あっちゃこっちゃから、『若宮』の思い出を語る人が出てきましてな。女将さんも悪い気はせなんだようで、和やかに掛け合いをしてはりました。そんな話を寄せ集めて、わしなりに推理して、作ってみたんが、この蕎麦っちゅうことですわ」空になった鉢を見て、流がわずかに胸を張った。
  「味だけじゃなく、器まで同じでした。刑事並みの推理力ですね」左京の言葉に、こいしは流を横目で見た。
  「正直に言いますとな、最後は教えてもろうたんです。女将さんに」流が照れ笑いを浮かべた。
  「でも料亭時代のことはお話しなさらなかったんでしょ」左京が首をかしげた。
  「──そう言えば鯛たいとすっぽんが大好物のお客さんがおられましたね──て女将さんが常連さんに話しかけられたんです。そしたらわしの隣のお客さんが、二、三人の名前を挙げはりまして」
  流が左京に顔を向けた。
  「その中に父の名が?」
  左京の問いかけに、流がうなずいてから続ける。
  「──お越しになると必ず鯛のアラとすっぽんで取った出汁をお吸い物にしてお出ししたんだけど、あれはどなたでしたかねぇ。もう忘れてしまいました──。ひとり言みたいに、女将さんがそう言わはりました」
  「鯛とすっぽん。それはまた贅沢な」
  左京が合いの手を入れた。
  「きっとヒントをくれはったんやと思いました」「ということは……」
  「──そうそう。お吸い物におそうめんを入れて、お食べになることもありました──て付け加えてくれはりました。親切な女将さんですわ」流が相好を崩した。
  「なるほど。鯛とすっぽんですか。そう言われれば、そんな味ですね。そうめんじゃなくて、あのときは蕎麦だった」
  「わしも最初は半信半疑でしたんや。鯛みたいな上品な味は、すっぽんに負けてしまうんやないかと。けど作ってみたら、なんともええ味が出よる」「贅沢なかけ蕎麦だったんですね」
  「政財界のお歴々やら、文化人御ご用よう達たしの店やったそうですから、きっと金に糸目はつけんと、最高の食材を仕入れてはったはずや。そう思うて、鯛も明石あかしの天然ものを使うて、すっぽんは京都の老舗と同じものを仕入れました。これが養殖の鯛やったらすっぽんに負けますやろけど、さすが明石の鯛は違います。しっかり味が乗ってます。
  蕎麦も乾麺ですけど、北海道産の蕎麦粉を使うたもん。出汁の味がよう乗りよる」「なるほど、そういうものですか。本物は強い……」左京はじっと考えこんでいる。
  「本物と本物が合わさったら、どっちが勝って、どっちが負けるてなことにはならへんのですなぁ。うまいこと調和しよる。我が我が、てな主張はしよらんのです」「うちもこのお出汁で雑炊したんですけど、そら美味しかったですわ。明石の鯛とすっぽんて、こんな合うんやて、びっくりしました。言うても、どっちも滅多に食べられへんのですけどね」
  こいしが肩をすくめた。
  左京は無言で鉢をじっと見つめている。
  「贅沢と言うたら贅沢ですけど、それが分からなんだら、ただの質素な蕎麦ですわ。お父さんもやけど、『若宮』の女将さんも何も言わはりませんでしたやろ。せやから、あなたは最初、粗末なもんを食べさせられたと思うてはった。この鉢も同じです。魯ろ山さん人じんの器を蕎麦の鉢に使うてなことは贅沢の極みですけど、知らんもんには、ただのうどん鉢」
  「なぜ言ってくれなかったんでしょうか。そう聞けば有り難みも違ってきたと思うんですが」
  「わしも詳しいことは分かりまへんけど、世阿弥の言葉に〈秘すれば花〉というのがあるんやそうですな。きっとそういうことやったんやおへんか」「〈秘すれば花〉……」
  左京がうつろな目をした。
  「これも、わしの推測ですさかい、間違うてるかもしれまへんけど、きっとお父さんは、あなたにそれを伝えたかったんやと思います」流が左京の目をまっすぐに見つめた。
  「それはつまり、僕を能楽の道に戻したいという意味でしょうか」左京が視線を返した。
  「わしはお父さんやないさかい、そこまでは分かりまへん。けど、そういう意味やないように思います。何ごとにも通じることとして、あなたに伝えようとしはったんと違いますやろか」
  「鯛やすっぽんを使った贅沢極まりない出汁なのに、それを表に出さず、ただの蕎麦のように見せる。でも、その味はこうして心に深く刻まれる。父はそのことを僕に伝えたかった」
  左京の言葉に、流はゆっくりとうなずいた。
  「うちには、難しすぎて分からん話やわ」
  こいしは左右に首を傾けている。
  「そない難しい考えることない。親にとって、子どもは幾つになっても子ども。気になって、しゃあないということや」
  「やさしいお父さんですやんか。継いであげはったらええのに」こいしが左京に顔を向けた。
  「継ぐということは、決して職業やら形やない。心なんや。子どもがどんな仕事をしてようが、伝わってきた心は継いでほしい。どこの親でも、そう思うてるのと違いますか」流が立ち上がった。
  「ありがとうございました」
  慌てて立ち上がって、左京が深く腰を折った。
  「なんや、よう分からんけど、よかったですね」こいしは歪ゆがんだ顔で笑った。
  「お世話になりました。これで思い残すことなく、まっすぐに進めます」左京が唇を一文字に結んだ。
  「よろしおした」
  流が一礼した。
  「この前の食事代と併せてお支払いを」
  左京が財布を取りだした。
  「うちはお客さんに金額を決めてもろてます。お気持ちに見合うた分だけ、こちらに振り込んでください」
  こいしがメモを手渡した。
  「承知しました。鯛やすっぽんまで使っていただいたのですから、精一杯のことはさせていただきます」
  左京が財布にメモを仕舞いこんだ。
  「京都でダンスの公演しはるときは知らせてくださいね。絶対観にいきますし。な、お父ちゃん」
  「そ、そやな」
  流が顔をひきつらせた。
  「無理しないでくださいね」
  左京が苦笑した。
  「お友だちと行きますわ」
  こいしが片目をつぶった。
  「ありがとうございます」
  律儀に礼を述べて、左京が引き戸を開けた。
  「こら、入ってきたらあかんぞ」
  足元に駆けよってきたひるねを、流が牽けん制せいした。
  「そうなんだって。いじわるだね」
  左京がひるねの喉を撫でた。
  「ホンマ意地悪なお父ちゃんや」
  こいしが左京の隣に屈みこんだ。
  「意地悪やとか、そういう話やのうてやな」
  「はいはい。分かってます。食べ物商売の店に猫は入れられへん」「分かってたらええ」
  流が口をへの字にした。
  「ひとつお訊きしてもいいですか」
  立ち上がって、左京が流に顔を向けた。
  「なんですやろ」
  「この前のお椀なんですけど、あのミネストローネっぽいスープと、『若宮』の蕎麦と、どこか同じような後味だったと思うのですが、気のせいでしょうか」「まったくの偶然ですけどな、同じもんが入ってたと思います。生しょう姜がの絞り汁です。すっぽんには付きものですさかいな。こないだのスープは、身体を温めてもらおうと思うて、ほんのちょびっとだけ入れました」
  「それで似たような味がしたんですね」
  「ええ舌してはります」
  流が左京に笑みを向けた。
  「ありがとうございます」
  一礼して、左京が正面通を西に向かって歩き始めたかと思うと、すぐに立ち止まって振り向いた。
  「もうひとつお訊きしてもいいですか」
  「どうぞ」
  流が一歩前に出た。
  「鉢の底に描かれていた〈福〉の字には、何か意味があるのでしょうか」「それは魯山人に訊いてください」流が苦笑して続ける。「食べる前には何も見えんけど、食べ終えたら〈福〉の字が現れる。縁起がよろしいな。それは舞台も同じなんと違いますか。舞台を観終わったあとに、しあわせな気分になれたらよろしいがな。今日はええもん観せてもろた、と思いながら席を立てたら、客もですけど、演じたほうもしあわせになれますやろ」
  「……」
  左京はじっと聞き入っている。
  「おきばりやす」
  こいしがかけた声で、ようやく左京が我に返ったかのように、背筋を伸ばして歩き始めた。
  後ろ姿をじっと見送るふたりに気付いたのか、通りの半分ほども歩いてから振り返って小さく礼をした。
  「お父ちゃん」
  店に戻るなり、こいしが流の両肩をつかんだ。
  「なんや、いきなり」
  その手を振りほどいて、流が振り向いた。
  「当分は贅沢禁止や、て言うてたんは誰なん? 魯山人の器なんか買うてからに」こいしがにらみつけた。
  「おまえは、もうちょっと見る目があると思うてたけど、節穴やな。こんなもん写しに決まっとるがな。魯山人はようけ写しやらコピーがあるんや」「なんや。そうやったんか。けど、それやったら左京さんをだましたことになるやんか」「あの人に頼まれたんは、蕎麦を捜すことや。器はァ∞ケやから」流が鉢を頭上にかかげた。
  「ときどき無茶するさかいに、本物を買うてきたんかと思たわ」「わしは魯山人の器はあまり好きやないんや」流が伏し目がちに言った。
  「なんでなん?」
  こいしが訊いた。
  「こういうさぶい夜は鍋が一番や。鯛とすっぽんの鍋てな贅沢なもん、滅多に食べられへんで。浩ひろさんも呼んでやり」
  流が話の向きを変えた。
  「ホンマ? 浩さんも鍋好きやしな」
  こいしが声のトーンを上げた。
  「掬きく子こも鍋好きやった」
  流が仏壇に目を遣やった。
  「そんな贅沢な鍋せんとき、てお母ちゃん言いそうやな」こいしが仏壇の前に座った。
  「たまにはええがな。なぁ掬子」
  流が線香を供えた。
 

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