第二話 カレーライス
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「東京へ行くのと、あんまり変わらんやないか」京都駅の七番線ホームに降り立った松まつ林ばやし信のぶ夫おは、ホームの時計を見上げてひとりごちた。
十時少し前に金沢駅を出たサンダーバード号は、お昼を十分ほど過ぎたころに京都駅に着く。乗車時間は二時間十五分ばかり。
ちょうど半月ほど前、金沢から東京へ行くのにかかった時間は二時間半。在来線と新幹線のスピードが格段に違うことに改めて驚いた。
ホームから階段を上ろうとして三段目でつまずき、危うく転びそうになった信夫は、老いが深まりつつあることを実感した。
京都駅の烏丸口を出た信夫は、烏丸通をまっすぐ北に向かった。
黒いショルダーバッグを肩にひとつ掛けただけの軽装で、小走りに七条通を渡り、正面通を東に折れる。
やがてそれらしき建屋を見つけた信夫は、玄関前に立って、しきりに首をかしげる。想像していた店とあまりに違い過ぎるからだ。
通りかかった若い僧侶に尋ねてみた。
「すみません。鴨川さんのお店はこちらでしょうか」「お店かどうかは知りませんが、鴨川さんのお宅ならここですよ」ゆったりとした口調で僧侶が答えた。
「ありがとうございます」
礼を述べてから、信夫は思い切って引き戸に手をかけた。
「こんにちは」
「ようこそ。お待ちしとりました」
白い帽子を取って笑顔を向けてきたのは、間違いなく鴨川流だった。
「よろしくお願いします」
信夫は一礼してから敷居をまたいだ。
「思うてはった店とは、まったく違いますやろ」信夫の戸惑いを見透かすように、流が店を見回した。
「ええ。ちょっと驚きました」
素直な思いを口にしてしまったことに、信夫は少しばかり後悔している。
自分が作る漆器は、決して安価とはいえない。店で使うと言って、これまでに鴨川流が買ってくれた器は、その中でも高い部類に入る。
「はじめまして。こいしです」
鴨川こいしが腰を折った。
「あなたが、こいしさんですか。お話はお父さんから伺ってましたが、想像していた以上の美人ですな」
振り向いて信夫が目を輝かせた。
「べんちゃら言うてもらわんでもよろしいんでっせ」流が苦笑いした。
「ほんま。美人なんて言われたことありませんし」こいしが頬を紅あかく染めた。
信夫は世辞など言えるような器用な人間ではない。驚くほど、こいしが自分の娘に似ていることが言わせた、率直な言葉だ。
容姿としては瓜うり二つというほどではないが、表情やしぐさが、娘の葉よう子こにそっくりなのである。
「なんぞ苦手なもんはありましたかいな」
こいしに見とれている信夫に流が尋ねた。
「海の近くで生まれ育ったのに、どういうわけか生っぽい魚が苦手でして。特に刺身はあまり……。それ以外はたいてい大丈夫です」
信夫は正直に答えて、また少し後悔した。
和食を出されることが分かっていて、刺身を外して欲しいなど、よく言えたものだ。刺身なしで和食を組み立てることが、どれほど難しいか。半世紀近くもの間、器を作ってきた自分が一番それを分かっているはずなのに。
「失礼な言い方になるかもしれまへんけど、お歳としを召してきたせいやないですかな。
実はわしもそうなんですわ。海辺の旅館なんかで舟盛を出されたら、げんなりしますねん。昔はそうでもなかったんですけどな」
流が出してくれた助け舟に救われた。
「鴨川さんもでしたか。いや、おっしゃるとおりです。若いころは平気だったんですが、年々、生の魚が食べ辛づらくなってきましてね。〆しめ鯖さばなんかの青魚も苦手です」信夫が小さく微笑ほほえんだ。
「まぁ、どうぞおかけくださいな」
こいしが赤いシートのパイプ椅子をすすめた。
「すぐにご用意しますさかい、ちょっと待っとってくださいや」帽子をかぶり直して、流が厨ちゅう房ぼうに入っていった。
「お飲みものはどないしましょ」
信夫の前に、こいしが折お敷しきを置いた。
「わがままを言わせてもらってもいいですか」信夫は上目遣いに、こいしの顔を見た。
「好きにしてもろてもええんですけど、何か?」こいしがその目を見返した。
「とっておきの酒を持ってきたんです。鴨川さんのお料理に合わそうと思って」ショルダーバッグから四合瓶を取り出した。
「『五ご凛りん』。石川県のお酒なんですね」こいしがラベルを読んでいる。
「石川県産の〈石川門〉という米を〈金沢酵母〉で醸した酒です。きっと鴨川さんの料理に合うだろうと思って」
「あとで、お父ちゃんにひと口飲ませてあげてくださいね。徳利はどうしましょ?」「直接やりますから要りません。コップか盃さかずきさえ用意していただければ」「いくつか持ってきますよって、選んでください」こいしが厨房に入っていった。
改めて、信夫は店の中を見回した。
〈食捜します〉。『料理春秋』の一行広告に書いてあったとおり、食堂というにふさわしい店だ。地元の駅前にもこの手の食堂は何軒かある。だが、まさか鴨川の店がこんなふうだとは思いもしなかった。これまでこの店に納めてきた器と、まったく似合わない店の設しつらえに、信夫は落胆を隠せなかった。目の前に置かれた真しん塗ぬりの折敷は、間違いなく自分の作品だ。だが、その下に見えるのは安っぽいデコラ貼りのテーブルだ。
「お待たせしましたな」
暖の簾れんをくぐって、流が料理を運んできて、折敷の上に並べはじめた。
古伊万里の長皿、江戸切子の小鉢、織部の角鉢、絵唐津の猪ちょ口こ。流が無言で置いていくのを、信夫は順に目で追っていく。
「まだまだ昼間は暑いですけど、朝晩は秋の気配がしてきましたな」並べおえて、流が口を開いた。
「夜になると虫のすだきが聞こえるようになりました」料理に目を奪われていた信夫は、少し間をおいてから言葉を返した。
「いちおう説明しときます。長皿は落ち鮎あゆの塩焼きです。一匹は桜とリンゴのチップで軽ぅに燻いぶしてます。子持ちのほうは柚ゆう庵あん地じにつけてから焼いてます。蓼たでの葉の刻んだんが添えてありますので、お好みでふりかけてください。切子の小鉢に入ってるのは名残鱧はもの南蛮漬けです。よかったら黒七味をお使いください。これくらい火が入った魚やったらお口に合うと思います。織部の鉢には揚げもんが入ってます。秋茄な子すと近江おうみ牛うしはフライにしてますので、味み噌そダレをつけて召し上がってください。小柱のかき揚げと、車くるま海え老びのすり身揚げには抹茶塩がよう合うと思います。唐津の猪口には炊き合わせを入れてます。落ち子、鮑あわび、姫ひめ松まつ茸たけ、赤こんにゃく、ァ’ラです。ご飯とお汁つゆは後でお持ちしますんで、まずはお酒でゆっくり愉たのしんでください」
長手盆を小脇に挟んで、流が一礼した。
「お好きなんをどうぞ」
竹籠に入った二十ばかりの盃を、こいしが折敷の横に置いた。
「迷いますねぇ」
信夫が笑顔を浮かべて腕組みした。
「置いときますよって、お好きなように」
笑顔を返して、こいしは流の後を追うように、厨房に入っていった。
竹籠から信しが楽らき焼やきのぐい呑のみを取った信夫は、酒瓶を傾けた。
いくらか大ぶりのぐい呑を口に運び、信夫は折敷の上をじっと見つめている。
どこをどう見ても場末の食堂にすぎない店なのに、折敷の上だけを見れば、星付きの料亭をも上回る。器の取り合わせ、料理の盛り付け、どれをとっても超一級である。二、三分ほどもそうしていただろうか。ようやく信夫が箸を手にした。
最初に箸をつけたのは、子持ち鮎だった。爽やかな柚ゆ子ずの香りが、生命を終えようとする鮎の熟れた味を包みこみ、ぷちぷちと弾はじける子の歯ざわりと相まって、豊かな味わいを生みだしている。還暦をとうに超えた今まで、数え切れないほどの鮎を食べてきたが、これほどに滋味深い鮎は初めてだった。
鱧の南蛮漬けには、奨すすめにしたがって黒七味を振りかけてみた。
なるほど、流が名残鱧と言ったはずだ。脂がのっている、を超えて、くどさを感じてしまいそうな鱧を、酢の酸味と黒七味の辛みで、後口を爽やかにしている。
食材の持つ力と弱みを、調理の技で整えている。なんとも凄すごい料理人だ。ならば、もっとそれに釣り合うような店にすればいいのに。
その思いはしかし、近江牛のフライを食べたときに、大きく変化した。
もしもこの料理が、祇園あたりの高級割かっ烹ぽうで出てきたら、客はよろこぶだろうが、これほどのインパクトはない。この店の佇たたずまいだからこそ、驚きが大きく、価値は高まるのだ。
酒瓶には、半分ほど酒が残っているが、料理はほぼ食べ尽くした。それを見計らったかのように、流が厨房から出てきた。
「ぼちぼち、ご飯にさせてもらいまひょか」
「ありがとうございます。ずっと飲み続けていたいところですが、肝心の話もしなければいけませんので」
「お口に合いましたかいな」
「驚きっぱなしでした。仕事がら、わたしもあちこちでご馳ち走そうをいただきますが、これほどの味は初めてです」
「そない言うてもらうようなもんやおへん。何ちゅうても、うちは食堂ですさかいな」器を下げながら、流が柔和な笑みを向けた。
「実を言うと、最初は驚きました。わたしの作品がこんな食堂で使われているのかと」「申し訳のないことで」
「いえいえ。それが高等戦略だということに、やっと気付きました」信夫が満面の笑みを浮かべると、流は少しばかり顔を曇らせて、厨房に向かった。
「お酒が足らんのと違います?」
こいしが訊きいた。
「もう充分です。ここらで目を覚まさないと」信夫が酒瓶の蓋を固く閉めた。
「今日は鱧ご飯を炊かせてもらいました」
流が信楽焼の土鍋を運んできた。
「鱧寿ず司しはよくいただきますが、鱧ご飯というのは初めてです」「鱧寿司みたいなご馳走と違うて、おばんざいみたいなもんですわ」流が藁わらの鍋敷の上に土鍋を置いた。
「このお汁は?」
椀わんの蓋を取って、信夫が訊いた。
「鱧の皮を刻んで、真しん蒸じょに仕立てて椀種にしました。お好みで柚子皮を入れてください」
流はあえて信夫作の椀を使ってくれたのだろう。黒漆の小吸椀からいい香りが立ち上ってくる。
「お番茶でよろしいやろか」
こいしが京焼の急須を手にした。
「わたしも家では、食後に棒茶を飲んでますから」「棒茶?」
こいしは急須を傾けかけた手をとめた。
「加賀の名産でしてね、茶の茎を使ったほうじ茶です。京都の煎り番茶と同じで、香ばしさがいのちです」
「美お味いしいもんを食べた後は、お番茶が一番ですね」薄手の湯吞みに番茶を注ぐと、くすぶったような香りが漂った。
「少なめに盛っておきますけど、いくらでもお代わりがありますんで言うてください」信夫の前に飯茶碗が置かれた。
「これが鱧ご飯ですか」
信夫が目を丸くした。
「ただの白ご飯に見えますやろ。塩焼きにした鱧の身をほぐして、炊きあがったご飯に混ぜこんでます。木の芽の刻んだんと、大葉の繊切りを薬味にしてもらうと、味がしまります。番茶でお茶漬けにしはるんやったら、わさびと海の苔り、ぶぶあられを入れてください」
流が土鍋の蓋にしゃもじを置いた。
「皮を取ると、鱧の身は真っ白なんですね。きらきら輝いています」流の言葉に手を合わせてから、信夫が箸を取った。
流の言葉どおり、見た目はただの白飯だが、口に運ぶと濃密な鱧の味わいが先に立つ。
相当な量の鱧が入っているのだろう。そして皮のほうは真蒸にして、椀種にする。食材を使いきる、その心根もさすがだ。
二度お代わりをして、三杯目は茶漬けにし、土鍋の中はほとんど空になった。
「土鍋ごとお代わりしまひょか」
盆を小脇に挟んで、流が信夫に笑顔を向けた。
「もう充分いただきました。こんなにご飯を食べたのは久しぶりです。やはり手間のかかった料理は美味しいですね」
信夫が腹をさすった。
「気に入ってもろて何よりです。ひと息つかはったら、肝心のご相談を伺いますさかい、声をかけてください」
器をさげて、流が厨房に戻っていった。
店と料理のギャップに、まだ釈然としないものの、それを補って余りある料理そのものの素晴らしさに、信夫は確信を持ちはじめていた。流ならきっと願いを叶かなえてくれるだろうと。
ゆっくりと番茶をすすってから、信夫は中腰になって厨房を覗のぞきこんだ。
いかにも京の町家らしく、廊下は長く奥へと続いている。先を歩く流の後を追う信夫の足取りは重い。
「この写真は?」
両側の壁にぎっしり貼られた写真に信夫の足がとまった。
「わしが作った料理ですわ。言うたらメモ代わりです」流が振り向いた。
「和食だけやないんですね」
信夫が写真に顔を近づけた。
「中華、洋食、なんでも作ります」
「一流の腕をお持ちなのに、ラーメンのようなB級料理も作られるんですね」「お言葉を返すようで申し訳ないんですが、わしは料理にA級もB級もないと思うてます。懐石もラーメンも、どっちが上やとか下やとか、そういうもんと違います。料理を作る側の心と、食べるほうの気持ちが合うたら、それでええんです」「そういうものですかね」
信夫には納得のいく話ではなかった。
ピンからキリまである漆器の中で、信夫が今作っているのは、限りなくピンに近い上じょう手て物ものだけである。かつては普段使いできる普及品も作っていたが、師匠や仲間からひどく中傷されたことで、高級品一本にしぼった。漆芸作家として、松林信夫が多少なりとも名声を得ているのは、その決断のおかげだと思っている。料理も漆器と同じ。
格というものがある。懐石料理とラーメンでは、格が違いすぎる。
流がノックをすると、中からこいしがドアを開けた。
「どうぞお入りください。後はこいしにまかせますんで」てっきり流が探偵だと思っていたのに、娘のこいしのほうだと聞き、信夫は、いささか拍子抜けした。
流の背中を見送って、少なからぬ不安を抱えたまま、信夫はこいしと向き合った。
「松林信夫さん。面倒ですけど、依頼書に記入してもらえますか」こいしがバインダーをローテーブルに置いた。
住所、氏名、年齢、生年月日、家族構成、職業、連絡先など、信夫は型どおりに書いて、こいしに手渡した。
「それで、お捜しするのは、どんな食べものです?」こいしが正面から信夫の目を見た。
目に力を込めてまっすぐに相手を見つめる、その表情は娘の葉子にそっくりだ。思わずしばらくの間見とれていた。
「お話ししにくいんですか?」
こいしが沈黙を破った。
「カレーライスです」
信夫が消え入るような声をだした。
「どこかのお店のですか?」
こいしがペンを構えた。
「いえ。娘が作ってくれたカレーです」
信夫はこいしの目をまっすぐに見返した。
「葉子さんがお作りになったカレーですね」
こいしが横目でバインダーを見た。
「ええ。八年ほどまえに作ってくれました」
ひとつ小さなため息をついてから、信夫は天井に目を遊ばせている。
「それやったら、お嬢さんにもう一回作ってもらわはったらええんと違います?」「それができるくらいなら、こちらにお願いしたりはしません」こいしの問いに信夫は寂しげに答えた。
「そうですよね。失礼しました」
こいしがぺこりと頭を下げた。
「葉子はね、今から二年ほど前に人を死なせてしまって、塀の中にいるんです」重い話を信夫は淡々と語った。
「よかったら、もう少し詳しいに話してもらえますか」一瞬の間を置き、信夫の顔色を窺うかがいながら、こいしが訊いた。
「わたしは家内を早くに亡くしましてね、ひとり娘の葉子を、ずっとひとりで、たいせつに育ててきました。高校を卒業して、京都の大学に入るまでは手元に置いていたんです」信夫が顔を曇らせて続ける。
「ミッション系の女子大で全寮制だからと、安心していたのですが、京都でくだらない男に引っかかってしまいましてね」
自らをあざけるように、信夫は口の端で笑った。
「父親から見たら、どんな男性でも娘の恋人はくだらなく見えるんやろなぁ」「そうやない。本当にくだらない男だったんです。空想文学だか何だかしらないが、一円の稼ぎにもならない文章を書くだけの甲か斐い性しょうなし。夢だけを食ってるようなヤツでした」
「ええやないですか。将来は大物作家になるかもしれんのやし」こいしが不服そうな顔をした。
「分野は違いますが、創作を生業にしている点ではわたしも同じです。将来性があるかどうかくらいは、すぐに見抜けますよ。葉子もきっとそれは分かっていたのでしょう。だからこそ自分が支えてやろうとした。そんなやさしい子なんです」「男の人に食べさせてもらう女の人が多いけど、その逆があってもええのと違いますか」「他ひ人とごとだから、そんなことが言えるんです。父親の立場に立ってみて、そんなことが言えますか?」
まるで娘に言い聞かせるかのように、信夫は言葉に力を込めた。
「そら、まぁ、そうやけど」
「どんな人に対してもやさしく接しなさい。そう言い続けてきた、わたしのしつけが間違っていたのでしょうね。いくら反対しても、葉子はその男と一緒になるといってきかなかった」
信夫は悔しそうに唇をまっすぐ結んだ。
「結局は一緒にならはったんですね」
こいしの問いかけに、信夫は黙ってうなずいた。
「親子の縁を切る、とまで言ったんですが。わたしより、あの男を選んだということですから仕方がないんです」
「その結婚と、娘さんが人を死なせたことに関係があるんですか?」こいしが信夫の目を覗きこんだ。
「結婚して六年ほど経たったころに、警察から連絡がきましてね。娘が人を死なせたと」「まさかご主人を」
こいしが目を見開いた。
「いっそ、そのほうがよかったのですが」
信夫が薄く笑って続ける。
「わたしにはよく分からんが、作家仲間というのは、しょっちゅう議論をするんだそうです。それが白熱してくると、ののしり合いにまでなるみたいで。居酒屋で飲んでいるとき、或ある作家が葉子の主人のことをクソ味み噌そに言ったらしい。もみ合いになったふたりの間に入った葉子が、引き離そうとして押し返したら、相手の男は柱の角で頭を強く打ったようです。どうやらその打ち所が悪かったようで」信夫が短くため息をついた。
「はずみというのは怖いもんですね」
こいしは心から同情した。
「先に手を出したのは相手の方で、酔ったものどうしのことだから、ある程度の情状は斟しん酌しゃくしてもらったようですが、それでも人を死なせてしまったことに変わりはないので」
「今、葉子さんのご主人は?」
「葉子が収監された後、子どもを放り出して、石垣島だか何だかの、南の島に逃げていったようです。葉子には、向こうで一旗揚げる、と言ってね。画家ならゴーギャンのようなこともあるのでしょうが、作家が島に住んだからといって、何が変わるのか。本当に卑ひ怯きょうな男です」
信夫は眉間にしわを寄せた。
「ということは、探してはるカレーライスは、葉子さんが刑務所に入る前に作ってくれはったんですよね。八年ほどまえと言わはりましたね」こいしが本題に入った。
「ええ。結婚式の一週間ほど前でした」
信夫が天井を見上げて、深いため息をついた。
返す言葉を探して、こいしは見つけられずにいる。
「京都の大学を出てから、娘はその男と東京で暮らしていましてね。わたしが反対し続けていたものだから、ほとんど帰ってこなくて、ときどき電話をしてくるくらいでした」「葉子さんは心細かったやろうに」
「うちに帰ってきたのは、最後の説得のつもりだったのでしょう。頑としてわたしは式に出ないと言い続けてましたから。晩ごはんを一緒に食べて欲しいと言ってきましてね」「なんぼ反対してても、式くらい出たげはらんと、葉子さんが可哀かわいそうですやん」こいしが言葉を強くした。
「あんな男に、娘をよろしく、なんて口が裂けても言えませんよ」信夫が小鼻をふくらませた。
「その男の人のためやのうて、お嬢さんのためですやんか」「わたしの性格を葉子はよく知ってますから、しつこくは言いませんでした。わたしにカレーを食べさせたかっただけだ、と」
「切ない話やなぁ」
こいしは瞳をうるませている。
「わたしはカレーが好物なものですから、何百、いや何千杯と食べてきましたが、あんなに旨うまいカレーは後にも先にもありません」「そら美味しかったでしょう。だいじなお嬢さんがお父さんのために作らはったんやから。それだけで美味しいに決まってるわ。どんなカレーやったんです?」「一番の特徴はカレーとご飯が最初から万べんなく混ざっていることでした。葉子が食卓に置いたのを見て、びっくりしました」
「ご飯とカレーが最初から混ざっている。他に何か特徴はありましたか」こいしがノートに書きつけている。
「味はとてもまろやかなんですが、けっこうスパイシーで。食べ終わるころには、葉子も額に汗をかいていましたね」
「具はどうでした?」
「柔らかく煮込んだ牛肉が入っていました。じゃがいもやらにんじんやらの野菜は入っていませんでした。いわゆるビーフカレーというやつです。そうそう、カレーソースにミンチのようなものが混ざってました」
「キーマカレー系かなぁ。見た目の色とかはどうでした?」「欧風カレーというのでしょうか。黄色ではなく茶色でしたね」「お嬢さんは、そのカレーのことを何か言うてはりましたか。どこかのお店の真ま似ねやとか、誰かに教わったとか」
「葉子は式の場所や内容、相手の男のことばかり話していましたから、カレーに触れることはありませんでした。わたしも何も言いませんでしたし」「そんなに美味しいと思わはったんなら、そう言うてあげはったらよろしいやん。そしたらお嬢さんも何か説明しはったやろに」
「それどころじゃなかったんでしょう。わたしの気が変わるように、ということだけで頭がいっぱいだったのだと思います」
「ほんまにじれったい話やなぁ」
いら立ちをぶつけるように、こいしは小刻みにボールペンをノックした。
「取り立てて、料理が得意なほうではありませんでしたから、きっとどこかのお店で食べたのを真似たのだろうと思います」
「それやったら捜しやすいんですけどね」
「おそらく京都で覚えた味なのでしょう」
信夫がソファの背にもたれかかった。
「葉子さんは京都のどの辺りに住んではったんです?」「寮は大学のすぐ近く、東山三条にありました」「在学中はずっと寮に?」
「ええ。卒業するまで寮で暮らしていました」「訪ねはったことは?」
「女子寮ですから」
首を横に振って、信夫が苦笑した。
「そしたら、どんな暮らしをしてはったかは分からへんのですね。バイトやとか、部活やとか」
「それなりにキャンパスライフは愉たのしんでいたと思います。時折、思い出したように便りが届きました。奈良でお寺巡りをしたり、琵び琶わ湖こでキャンプしたり、そんな写真を送ってくれました」
「あんまりカレーには結びつきそうにないなぁ」こいしが両腕を組んだ。
「葉子が特にカレー好きということでもなかったのですが、食べ歩きはよくしていたようです。京都は美味しい店がたくさんありますからね」「けど、普通の女子大生が、食べ歩きして覚えた味を再現するのは、そう簡単なことやないですよね」
「ええ。わたしもそう思います」
「そこが謎やなぁ」
こいしはノートを繰って、思いを巡らせている。
「寮で出されていたのかもしれません」
ぽつりと信夫がつぶやいた。
「その可能性もありますね。けど、なんで今になって、そのカレーを捜そうと?」「孫に食べさせてやりたくなりましてね」
信夫がこの部屋に入って、はじめて見せた笑顔だった。
「文ふみ則のりくんですね」
こいしの目がバインダーを追った。
「七歳になったばかりですが、あんな、ろくでもない父親の子どもだとは思えない、とてもしっかりした子です。葉子のことを気遣っているのか、寂しがる素ぶりも見せませんし、聞き分けもいいんです」
信夫が目を細めた。
「お孫さんて、可愛かわいいらしいですね。自分の子どもより可愛い、て、よう聞きますわ」
「うちは男の子がいませんでしたから、余計にそう思うのかもしれません」「一緒に暮らしてはるんですか」
こいしが訊いた。
「事件が起こった後にわたしが引き取って、それからずっと」「お仕事しながらやったら、大変なんとちがいます?」「仕事を手伝ってくれている妹が助けてくれています」「佳よし恵えさんですね」
「ええ。良い縁がなくて、ずっとひとり身を通しているものですから、自分の子どものようにして世話してくれています」
「やっぱり身内が助けになりますね。けど、さっきお聞きした話やと、スパイシーで汗が出るくらい辛かったカレー、小さいお子さんには不向きなんとちがうかなぁ」こいしが小首をかしげた。
「わたしもそう思ったのですが、文則は辛いものが大好きなようでして。わたしに似たのかもしれません」
信夫が相好を崩した。
「おじいちゃん似のお孫さん。目の中に入れても痛くない、ていうことですね」「その可愛い孫のためにも、なんとか捜しだしてください」信夫が頭を下げた。
「まかしてください。て、言うても、実際に捜すのはお父ちゃんですけどね」笑みを浮かべて、こいしがノートを閉じた。
ふたりが店に戻ると、流は鍋を洗っていた。
「どや。あんじょうお聞きしたんか」
蛇口をひねって、水の流れを止めた。
「ええ、しっかりとお聞きいただきました」
「けど、今回は相当な難問やで、お父ちゃん」こいしが流の肩を叩たたいた。
「今回は、て、いっつもやないか。簡単に見つかったことなんか、いっぺんもないがな」鍋を拭きながら、流が苦い笑いを浮かべた。
「鴨川さん、どうぞよろしくお願いいたします」「せいいっぱい、捜させてもらいます」
信夫と流が頭を下げあった。
「そうそう、この前注文された汁椀ですけど、半月後くらいにはできあがりますので、お送りします」
敷居をまたいで、信夫が振り返った。
「それやったら、ちょうどよろしいわ。二週間ほどでご依頼の食を捜しておきますんで、今度お越しになるときにお持ちいただいたら」「そうですか。じゃあそうさせていただきます」「ご連絡させていただくのは、いつもの電話番号でよろしいですか」こいしが訊いた。
「ええ。もしくは携帯のほうに」
信夫が答えると、ひるねが足元に寄ってきた。
「これ、そっち行き。服が汚れるがな」
流が追い払った。
「おたくの飼い猫ですか」
信夫が訊いた。
「まぁ、そんなようなもんですけど、うちには絶対入れてもらえへんのですよ」ひるねを抱き上げて、こいしが唇を尖とがらせた。
「食いもん商売の家に、猫なんか入れられますかいな」流が眉間にしわを寄せた。
「うちも同じです。細かな毛が漆に付いたら大変ですから。孫は猫を飼いたいようなんですが。それにしても猫は可愛いですなぁ」
信夫が目を細めた。
「うちみたいに外で飼わはったらよろしいがな」流の言葉に笑顔を浮かべて、信夫は正面通を西に向かって歩いていった。
「今度はカレーやで」
見送って、こいしが流に言った。
「意外やな。松林さんやったら、もっと高尚な料理を捜してはるのかと思うてた」「最初は言いにくそうにしてはったわ」
「変わったカレーか?」
「そうでもない。カレーとご飯が最初から万べんのう混ざってるだけなんやて。わたしにはだいたい分かったけど」
こいしがひるねを地面に下ろした。
「ほう。それやったら話が早いやないか。今回はおまえにまかすわ」「そんなイケズ言わんといてぇな。違うてたらえらいことやんか」こいしが流の背中を叩いた。