第三話 焼きそば
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烏丸通を挟んで『東本願寺』の向かい側に、仏具商や仏壇屋が立ち並ぶ正面通がある。
その道筋を東から西へ、一台のタクシーがゆっくりと走っていた。
日傘をさした浴衣姿の若い女性がふたり並んで歩く姿を、運転手が目で追った。
後部座席の真ん中に座る前まえ崎ざき弓ゆみ子こは、タイトなパンツスーツで前のめりになって、運転席に手をかけている。
「ほんまにここらへんなんですか? 食堂らしい店はありまへんで」ハンドルを握りなおして、左右を見回す運転手がぼやいた。
「間違いありません。ほら、地図だとこのあたりでしょ」弓子が、後部座席から身を乗り出して地図を見せた。
「地図が間違うてるんと違いますか。わしも長年個人タクシーやってますけど、こんなとこに食堂やなんて聞いたことおへんで」
「ほら、その左側。そこじゃないですか」
弓子が指差す先に建っているのはモルタル造の二階屋だ。
「こんなん普通の家ですがな。看板も何もありまへんし」「看板がない店みたいですから、ここかもしれません。いいから停とめてください」弓子がきっぱりと言いきった。
「停め、て言わはるんやったら停めますけどな」運転手はしぶしぶブレーキを踏んだ。
「お釣りはいいから開けてください」
メーターは六一〇円を表示している。弓子は千円札を運転手に手渡した。
「ほんまに若い娘はんは、せっかちやなぁ」
札をたたみながら、年老いた運転手が苦笑いした。
「四十前ですから、全然若くないですよ」
小ぶりのキャリーバッグを抱えて、勢い込んで降りたものの確たる自信もなく、弓子はおそるおそる店の様子を窺うかがった。
外から見る限り、まったく食堂らしき気配はない。ただ、中から漂ってくる匂いは間違いなく飲食店のそれだ。
弓子は上着の襟を整えた。
「よし」
両手のこぶしを握りしめて、弓子は引き戸を開けた。
「いらっしゃい」
思ったより明るい声で迎えられたことに、弓子はホッと胸を撫なでおろした。
「こちらは鴨川食堂でしょうか」
額の汗をレースのハンカチで拭いながら、黒いソムリエエプロンを着けた若い女性に訊きいた。
「そうですけど。お食事ですか」
あまり歓迎されていないような低い声に、弓子の胸は少しばかりふさがった。
「食を捜してもらいたくて伺ったんですが」
「そっちのお客さんやったんですか。探偵のほうはわたしが所長になってます。鴨川こいしです」
「前崎弓子です。よろしくお願いします」
弓子が名刺を差し出した。
「前崎記念財団代表。どんなお仕事をなさってるんです?」こいしが訊いた。
「遠いとこから、ようお越しいただきました。食堂の主人をしております、鴨川流です。
これが娘のこいしです」
厨房から出てきた流が、白い帽子を取って、弓子に頭を下げた。
「ご丁寧にありがとうございます。おととい日本に戻ってまいりました」弓子がリーフレットを流に手渡した。
「いつもご苦労さんですなぁ。ほんまにありがたいことやと思うてます」手に取って、流が押しいただいた。
まるで旧知の仲のようなふたりのやり取りを、こいしは目を白黒させながら左右に動かしている。
「今回はどちらへ?」
流が訊いた。
「大雨の被害を受けられた栃木のほうへ」
「そうでしたか。きっと皆よろこぶと思います……たしか、最初は阪神淡路大震災のときでしたな」
「はい。父の発案ではじまりました」
「お父さんは?」
「一昨年、亡くなりました」
「そうでしたか」
流と弓子の短いキャッチボールが続いた。
「お腹なかのほうはどないですのん?」
こいしが言葉を挟んだ。
「何かいただけるのでしたら、よろこんで」
弓子が微笑ほほえんだ。
「なんぞ苦手なもんはおへんか?」
「あれば少しは可愛かわいげがあるのでしょうが」弓子が艶っぽい笑みを流に投げた。
「腕によりをかけさせてもらいますわ」
流が厨ちゅう房ぼうに入っていった。
「ホンマ、お父ちゃんは若い美人に弱いんやから」こいしが呆あきれ顔を厨房に向けた。
「日本では四十前は若いっていうのですか」
弓子がパイプ椅子に腰かけた。
「うちとあんまり変わらへんのや」
こいしがテーブルを拭く手を止めた。
「とてもそんなふうに見えませんわ。まだ二十代だと思っていました」弓子が口の端で笑った。
「前崎さんみたいな色気もありませんしね」
こいしが乱暴にダスターをたたんだ。
「あなたが食を捜してくださるの?」
「うちはお話を聞かせてもらうだけで、実際に捜すのはお父ちゃんです」「そうでしたか」
ホッとしたように、弓子が表情を緩めた。
「オーストラリアに住んではるんですか」
こいしが名刺に目を近づけた。
「オーストリアです」
弓子が語気を強めた。
「失礼しました。このごろよう目がかすむんですわ」こいしが目をこすった。
「たいして歳としも違わないのにお気の毒なこと」憐あわれむように弓子がこいしを見あげた。
「うちのことはどうやって知らはったんですか」こいしが話の向きを変えた。
「食べることが好きなので、日本から『料理春秋』を取り寄せていて、そちらにここの広告が出ていたものですから」
「けど、住所も何も書いてないでしょ?」
「編集長さんに頼み込んで教えてもらいました」「やっぱり」
こいしが肩をすくめた。
「夏の京都は暑いと聞いてましたけど、想像以上ですね」「すんません。クーラーの効きが悪うて。そろそろ買い替えなアカンなて言うてるんです」
こいしがリモコンを操作した。
「お外の話ですよ。でも、やっぱり京都はいいですね。駅にも祇ぎ園おん囃ばや子しが流れてましたし、浴衣姿のお嬢さんもたくさんいらっしゃる。日本の夏らしい風情がありますわね」
「夏の京都は旨うまいもんもようけありますさかいな」流が大きな盆に料理を載せて運んできた。
「そんなにたくさん食べられませんよ」
盆の上の器を目で数えて、弓子が高い声をだした。
「ようけに見えますけど、ひと品の量はちょびっとずつですさかい、大丈夫やと思いまっせ」
藍地の布をテーブルに広げ、その上に料理を並べていく。弓子はその度に歓声をあげる。
「小皿と小鉢尽くしにさせてもらいました。左上の切子の小鉢に入ってるのが鱧はもの煮こごり、柚ゆ子ずを振ってます。その横の伊万里の小皿は鰻うなぎの白焼き、わさび醤じょう油ゆで食べてください。その右の小さい竹籠にはフライを入れてます。賀茂なすと近江牛、どっちも辛から味み噌そを塗ってもろたら美お味いしおす。その真下のガラス皿は毛ガニ。二杯酢のジュレがかけてあります。その左横の織部は小こ鮎あゆの塩焼き。蓼たで酢すをかけて頭からかぶりついてください。左端の漆うるし椀わんは枝豆のすり流し、言うたら和風のビシソワーズですわ。その下の九谷の小鉢は鷹たかが峯みねとうがらしと地じ鶏どりの焼きもん。ポン酢味が付けてあります。隣の信楽の小皿は蒸し鮑あわび、肝のタレがかかってます。右下のガラス鉢には冷ひや奴やっこが入ってます。ァ£ーブァ·ルと塩で召し上がってください」
流が料理の説明をする都度、弓子は大きくうなずいて聞いていた。
「お酒はどないです?」
こいしが訊いた。
「スパークリングワインなんて無いですよね」「シャンパンてな上等はおへんけど、スプマンテかカヴァやったらありまっせ。辛口がよろしいんやろ」
「嬉しい。じゃカヴァをいただけるかしら。もちろん辛口で」「夏場は泡もんがよろしおすな」
「わたしは年中泡ものなんですのよ」
弓子が涼し気な声で言った。
「やっぱり外国に住んではる人は違うなぁ。年中シャンパンやなんて憧れますわ」こいしが顔を斜めにした。
「毎日シャンパーニュなら贅沢でしょうけど、スパークリングワインだとテーブルワインと同じくらいですから」
「シャンパンとスパークリングワインて、そない違うんですか?」「そもそもシャンパーニュというのは……」
「後でちゃんと、こいしに教えときますさかい、どうぞゆっくり召し上がってください」こいしをにらみつけてから、流がフルートグラスをテーブルに置いた。
弓子は笑みを浮かべて、テーブルの上を見回した。
「こんな仕事しながら、なんにも知らん娘で困ったもんですわ」流が静かにコルクを抜いた。
「うちの仕事は探偵事務所の所長やもん」
こいしがぷいと横を向いた。
「いつまで経たっても子どもですわ」
流が苦笑いしながらグラスに注ついだ。
「明るいお嬢さまでいいじゃありませんか」
弓子がフルートグラスを傾けた。
「ご飯は後でお持ちしますんで、どうぞごゆっくり」ワインクーラーにボトルを突っ込んだ流が背中を向け、こいしもそれに続いた。
どれから箸をつけようか。弓子は長い間迷ったあげく、毛ガニに箸を伸ばした。
ジュレをまぶして口に運ぶ。爽やかな甘みがいかにも夏の蟹かにらしい。ウィーンにもホテルのレストランを筆頭に、和食を出す店は少なくない。だがその味はと言えば、弓子の好みとはかけ離れている。日本に戻ってきた本来の目的は被災地の人々、とりわけ子どもたちを勇気づけることだが、美味しい日本料理を食べることも、来日の大きな愉たのしみとしている。
日本へやってきて十日目で、ようやく日本料理らしい料理にありつけた。小鮎の塩焼きを食べながら、弓子はそう思った。
煮こごりの鱧に夏の京都を感じる。とは言ってもガイドブックのうけ売りで、よく分かっていないのではあるが。フルートグラスを傾け、順に箸を伸ばし、半分ほども食べ終えたころ、流が厨房から出てきた。
「お口に合うてますかいな」
爽やかな泡音を立てて、グラスに注いだ。
「日本料理って、こんなに美味しいんですね。いつもまがいものばかり食べておりますから、改めて和食のすごさに感動しております」「わしの料理は我流でっさかいに、伝統的な日本料理とは言えしませんけど、今流は行やりの創作和食に比べたらマシなほうやと思います」「三年ぶりの日本ですが、和食もずいぶん様変わりしましたね。パフォーマンスばかりで中身が伴っていないように思えてなりません」「さすが本物を極めはった方は、よう本質を見ぬいてはりますな。おっしゃるとおりやと思います。主役はお客さん、料理人は出すぎたらアカン。親方によう言われましたけど、今の料理人はお客さんに合わせることを知りまへん。料理人の自己満足に付き合うお客さんが増えてきましたんやろなぁ」
「食べるペースまで料理人が主導権を握るというのは、とてもおかしなことだと思いますわ」
弓子がグラスを一気に傾けた。
「初めてのときは、こないしておまかせにさせてもろてますけど、近所の常連さんには食べたいもんを注文してもろてます」
流がグラスに注いだ。
「ウィーンにも支店を出してくださいな」
弓子が賀茂なすのフライを手でつまんだ。
「娘に相談しときますわ。ゆっくり食べとうくれやす。お声をかけてもろたら、ご飯をお持ちします」
一礼して流が下っていった。
ボトルには三分の一ほどしか残っていない。鮑、鰻、冷奴、次々と箸を伸ばし、口に運ぶ度、笑顔を浮かべる。流の言葉どおり、軽く食べきれそうだ。いく品か残しておいて、厨房に声をかけた。
ややあって、流が運んできたのは焼き鱧の丼だった。
「鰻の代わりに、漬け焼きにした鱧をご飯に載せとります。江戸ふうに蒸しを入れましたんで、骨もさわらんと思います。お椀わんは鱧の肝吸いです。お好みで生しょう姜がの絞り汁を入れてください。鱧丼には粉こな山さん椒しょうがよう合います」染付の小さな鉢に盛られたそれは、鰻丼そっくりで、立ち上る薫りもよく似ている。粉山椒をたっぷり振った焼鱧で、タレの染みたご飯を包むようにして口に運ぶ。
見た目よりはるかに熱々のご飯にむせながら、弓子は何度も噛かみしめて満ち足りた表情を浮かべた。
椀の蓋を取ると、湯気が立ち上る。すかさず弓子は豆まめ壺つぼに入った生姜汁を垂らし、ゆっくりと椀に口をつけた。肝特有の臭みなどまるで感じられず、鱧から取った出だ汁しなのだろうか、旨みの濃い吸い地は官能的ですらある。
「お代わりもありますさかい、遠慮のう。ほうじ茶を置いときますわ」流が美み濃の焼やきの土瓶と湯ゆ呑のみを置いた。
「もう充分いただきました。こんなに食べたのは何年ぶりかしら。食べきれないかも、なんて申し上げたのが恥ずかしいです」
弓子が頬を紅く染めた。
「何を言うてはります。こないきれいに食べてもろたら、料理人冥みょう利りにつきるっちゅうもんです」
流が目を細めた。
「そう言っていただけると救われます。こんなにかっさらえたところを父が見たら、ひどく叱られたと思います。はしたない女だって」「日本を離れて暮らしてはったからこそ、大和やまと撫なで子しこへの思いが強かったんでしょうな」
「そのくせ少しでも弱音をはくと、ものすごい剣幕で怒るんですよ。小さいころからそうでした」
「お小さいときから天才少女やと言われて大変でしたやろな。お若いうちにピアニストを引退なさったんも分かるような気がします」
わずかにボトルに残っていたスパークリングワインを流がグラスに注いだ。
「……」
弓子は今にも泣きだしそうにしている。
「余計なお話をしてしまいましたな。こいしが待っとりますさかい、そろそろ行きまひょか」
流の言葉に弓子は小さくうなずいた。
細長い廊下を流が先導し、その後ろを弓子が歩いていく。酔いがまわっているのか、おぼつかない足どりで、うつむいたまま、少しずつ歩を進める。何度も振り返りながら、流はその歩みに合わせて歩幅を狭くした。
「大丈夫でっか」
「ごめんなさい。少し飲みすぎてしまいました」立ちどまって弓子が大きく肩で息をした。
「お気になさらんと。お話はこの次にお聞きしてもええんですさかい」「お気遣いありがとうございます。でも、そんなわけにはいきません」かぶりを振り、平手で二度、三度顔を打ち、弓子は靴音を立てた。
「あとはこいしに任せますさかいに」
探偵事務所のドアを開けて、流は廊下を戻っていった。
「早速ですけど、こちらにご記入いただけますか」しごく事務的に言い、こいしがバインダーを弓子に手渡した。
ローテーブルを挟むかたちで、こいしと向い合ってソファに腰かけた弓子は、少し時間をかけて書きいれ、こいしにそれを返した。
「前崎弓子さん。三十八歳。お仕事はピアノ教師。ピアノの先生をしてはるんですね」「今はね……」
弓子が天井を仰いだ。
「昔は違うたんですか?」
「ピアニストだったの」
「同じようなもんですやん」
「まったく違いますよ。現役のアスリートと引退したアスリートは別の存在でしょ?」弓子が色をなした。
「失礼しました」
気け圧おされて、こいしは話の向きを変える。
「どんな食をお捜しなんです?」
「焼きそばです」
弓子の声が小さくなった。
「いつごろ、どこで食べはった焼きそばですか?」「十五年ほど前に、大阪で」
「よかったぁ。オーストラリアまで捜しに行かんならんかったら大変やわ」「オーストリアです」
憮ぶ然ぜんとした顔つきで弓子が言った。
「すんません」
こいしが両肩を縮めて続ける。
「どんな焼きそばやったんか、詳しいに聞かせてもらえますか」こいしはノートを開き、ペンを構えた。
「ある人が作ってくれた焼きそばですが、ふつうのソース焼きそばです」「ソース焼きそばて、お好み焼き屋さんで出てくるような、あんな感じですか?」こいしがノートにいたずら描きしている。
「八歳のときにオーストリアに移り住んで、それから日本に来たのは数回しかないんです。ほかの焼きそばがどんなものかよく知らないので、比較はできないのですが、幼稚園のころにお祭りの屋台で食べた焼きそばによく似ていたような気がします」「つまりは何の特徴もないソース焼きそばということですね。一番難しいパターンやな。
なんでもええんですけど、何か特徴を覚えてはりませんか。ほんまに些さ細さいなことでええんです」
「見た目はふつうのソース焼きそばです。麺は濃い茶色でしたけど、そんなに濃い味付けではありませんでした。目玉焼きがひとつ載っていて、紅ショウガが横に添えられていて……」
天井に目を遊ばせながら、弓子は記憶を辿たどっている。
「特に変わったもんと違うなぁ。具は何が入ってました?」「豚肉ともやしとネギくらいだったかしら」
「キャベツはどうでした?」
「入ってなかったような気がします。記憶があいまいですが」「味はどうでした? ふつうのソース味でしたか?」「本当にいい加減な記憶なんですが、お出汁の味がしたように思います」「かつお節がかかっていたからと違うんですか?」「かつお節はかかっていなかったような気がします」「それはええヒントかもしれんなぁ」
こいしがペンを走らせた。
「そうそう、とっても不思議だったのは、出来上がった後に、もう一度ソースをかけると美味しいと彼が言ったことです」
「味が足りんかったんやろねぇ」
「そうだったのかしら。でも最初からテーブルにソースが置いてあったような気がするんです」
「わたしの聞き違いかもしれませんけど、彼が、て言わはりませんでした?」「ええ」
短く答えて、弓子は赤みがさした顔をテーブルに落とした。
「差しつかえなかったら、どういう人が作ってくれはったか教えてもらえます?」こいしが顔を覗のぞきこんだ。
「十五年前、震災の復興祈念コンサートで、わたしはひと月かけて関西地方を回りました。そのときのマネージメントをしてくれた男性です」「お名前とか聞かせてもろてもよろしいやろか」「須す賀が原はら徹とおるさんです」
「当時おいくつやったんです?」
「わたしが二十三で、彼はふたつ上でしたから二十五歳でした」「その焼きそばはどこで作らはったんですか」「わたしが滞在していた大阪のホテルです。長期滞在用の部屋で小さなキッチンが付いていたので、そこで彼が作ってくれたんです」
「焼きそばが似合う街ですね」
こいしがノートに書き留めた。
「東京で生まれて、子どものときに日本を離れましたから、大阪と焼きそばが関係があるのかどうか、わたしには分かりません。あのときも大阪に居ながら大阪らしいものは殆ほとんど食べませんでしたから」
「毎日外食ばっかりやったんでしょう?」
「朝にトーストを焼いて、コーヒーを淹いれるくらいで、キッチンを使ったことはありませんでした。自治体やらスポンサーの方にお招きを受けて、昼も夜も会食続きでしたから」
「それはそれで大変やねぇ。ご馳ち走そうが続くと飽きますもんね」「ご馳走もですが、気を遣いながら食事するのも毎日だと大変なんです。わがままだとは思うのですが」
「そらそうやわねぇ」
こいしが短く相あい槌づちをうった。
「彼が気を遣ってくれて、日本最後の夜を空けてくれたんです」「最後の夜に焼きそば、ですか。なんや似合わんようにも思いますけど」「どうしてもわたしに食べさせたいものがある。彼がそう言って」弓子が遠い目をした。
「立ち入ったこと、お訊きしてもよろしいやろか」「何でしょう」
「おふたりの関係は、お仕事だけやったんですか」「嘘うそをつくわけにはいきませんわね。短い間でしたけど、付き合っていた、ということになるのでしょうね。わたしには初めての男性でした」弓子が顔を赤らめた。
「やっぱり。そうでなかったらホテルの部屋には……」こいしが語尾をにごした。
「子どものころにあちらに移住してからは、ピアノのレッスン漬けで、恋をする時間もありませんでした。両親ともに音楽家でしたから、朝から晩までずっと一緒でしたし」「箱入り娘やったんや。日本に来てはる間、心配してはったんと違います?」「一日に三回は電話が入っていました」
「それでも人を好きになってしもうたら、どうしようもありませんよね」「男のかたと、どう接していいのかも分からず、それでも彼とずっと一緒にいる時間は夢のようで。でも、だから毎日のコンサートを務められたのだと思いますが」弓子が背筋を伸ばした。
「須賀原さんは、なんで焼きそばを弓子さんに食べさせたかったんです?」「ご自分の好物だからとおっしゃってました。今でいうソウルフードでしょうか」「何か特別な思い入れでもあったんやろか」
こいしはノートにイラストを描いている。
「分かりません。ただ、わたしがすごく気に入ったのが意外なようでした。本当に美味しいと思うか、って何度も訊くんです。なぜわたしが嘘をつかなきゃいけないの? と反論しましたが」
「さっき、ソウルフードて言うてはりましたよね。須賀原さんがそう言うてはったんですか」
「当時はそんな言葉はなかったと思いますが。元気をなくしたとき、嬉しいことがあったとき、その焼きそばを食べてきたとおっしゃってました」「ていうことは、地元の名物かもしれんなぁ。須賀原さんのお生まれはどちらやったかご存じですか」
「たしか東北のほうだとおっしゃってましたが、詳しくは存じません」「言葉の訛なまりとかありました?」
「いえ、標準語のアクセントだったと思います」「うちに捜して欲しいと言うてきはるくらいやから、当然その須賀原さんとは連絡してはらへんのですよね」
「はい」
弓子は声を落とした。
こいしはボールペンのノックを繰り返した後、弓子に顔を向けた。
「今になって、その焼きそばを捜そうと思わはったんは、なんでです?」こいしの言葉に、弓子は顔をこわばらせた。
「言いにくいことやったらええんですけど」
「……」
弓子はうつろな目をテーブルに向けたまま、身じろぎひとつしない。
しばらく沈黙が続き、ようやく弓子が重い口を開いた。
「あのころにもう一度戻りたいんです」
「どういう意味です?」
こいしが膝を前に出した。
「わたしの人生を大きく変えてしまったあの日に、気持ちだけでも戻りたいと」「焼きそばを食べはったことで人生が変わった、て言わはるんですか?」「きっと免疫がなかったせいだと思うのですが、わたしは我を忘れて彼に夢中になってしまいました。日本に残って彼と一緒になりたい。そう思ってしまったんです」「激しい恋に落ちはったんや。ちょっとうらやましいな」こいしが肩をすくめた。
「彼も同じ気持ちだったと思いますが、遠慮深い人で、腰が引けてました。当時は天才ピアニストとして名を知られていた前崎弓子を、自分ひとりだけのものにはできない。何度もそう言って……。でもわたしは強引に奪ってほしくて、本当にもどかしかった」「いっぺんでええから、そんな熱い恋してみたいわ」「そうだ。ピアニストをやめてしまえば、彼と一緒になれる。わたしはそう思ったんです」
こいしの言葉など耳に入らないかのように、表情を変えることなく、弓子は続ける。
「その頃のわたしはお箸をうまく使えなくて、焼きそばもフォークで食べていました」「今はじょうずに使わはるのに」
「ピアニストにとって指は命の次に大切なものです。慣れたフォークのほうが安全だと両親は思っていたようです。家で日本料理を食べるときも、わたしはフォークを使わされていました」
「ピアノ弾くのもたいへんなんや」
こいしが合いの手を入れた。
「何もかも両親に言われるがままに生きてきたことが、とても虚むなしく思えてきて。相談したとしても彼とのことを認めてくれるはずもないでしょう。このままだと、わたしは一生両親のロボットになってしまう。そう思ったんです」「反乱を起こそうと思わはったんやね」
「わたしからピアニストという肩書を取ってしまえば、きっと両親もあきらめるだろう。
要はピアノが弾けないようになればいいんだ」「もったいないことを」
こいしが眉尻をさげた。
「手の甲を彼の前に差し出して、フォークを渡しました。これで刺してくださいと言って」
「ようそんな怖いこと」
こいしは身震いした。
「ただただ彼と一緒になりたい。そんな一途な思いでした」弓子が左手の甲を撫でた。
「須賀原さんは刺さはったんですか?」
こいしが身を乗り出した。
「はい。かすり傷程度の浅い刺し方でした。でも血が滲にじんできたのを見て、自分のしたことを後悔したのでしょう。泣きながら何度も謝って、部屋を飛び出していきました」「浅いて言うても、よう刺さはりましたね」
「わたしが何度も何度も迫ったからです。わたしのことを愛しているなら刺して、って」「で、その後は?」
「彼とはそれっきりです。空港にも見送りに来てくれませんでしたし」「そのときの傷がきっかけで現役を退かはったんですか?」「彼はそう思っているでしょうね。でも本当はその上から、わたしが自分で刺したんです」
弓子がかすかに残る傷跡を見せた。
「こんなくらいでピアノを弾けへんようになるんですか」手を取って、こいしが目を近づけた。
「普通に弾くことには何の不自由もありません。でもプロのピアニストとしては失格です。皮膚が引きつれてしまって、微妙なタッチが……」弓子が傷跡を撫でた。
「なんか壮絶な話やなぁ。ご両親も驚かはったでしょう」「呆ぼう然ぜんとするばかりでしたね。父も母も半年ほどふさぎ込んでいました。暗い家に薄日がさしてきたのは、ピアノを教える側にまわるという話が具体的になったときです」
「有名なピアニストに教えてもらえたら嬉しいですもんね。ピアニストからピアノの先生へ、ええ話ですやん」
こいしがなぐさめの言葉をかけた。
「周りの人からも、あることないこと、いろいろ言われました。ただの事故だということで押しとおしましたが、自殺未遂だったという噂うわさまで流されてしまって」「有名税ていうことですね。気の毒に」
「若いということは無謀なんだなぁとつくづく思います。分別がつかないというのか」弓子が深いため息をついた。
「もしもその焼きそばが見つかったとして、その頃の気持ちに戻って、どうしはるつもりなんです?」
「実はわたし、好きな人ができたんです。この歳になって恥ずかしいのですが」こいしの問いに弓子が答えた。
「なんにも恥ずかしいことありませんやん。結婚しはるんですか」「両親が亡くなって、肩の荷がおりたような気がして。ひとりで寂しいというのもありますが、一緒になろうと思っています」
「その前に、焼きそばを食べて、気持ちをさっぱりさせたい、ということですね」こいしがノートにペンを走らせた。
「気持ちを整理したいんです」
うつろな目で弓子が言った。
「分かりました。お父ちゃんに気張ってもらいます」こいしがノートを閉じた。
ふたりが食堂に戻ると、流が厨房から顔を覗かせた。
「あんじょうお聞きしたんか?」
「しっかり聞かせてもろた」
こいしが応えた。
「長々とお話しさせていただき、ありがとうございました」弓子がふたりに頭をさげた。
「しっかり捜させてもらいますけど、お時間ありませんわな?」「あと半月ほどはこちらにおりますので、それまでに捜していただければ」「分かりました。せいだい気張って捜しますわ。て言うても何や分かりませんけど」厨房から出てきて、流が苦笑いした。
「弓子さんの人生がかかってるんやから、頑張って捜してや」こいしが流の背中をはたいた。
「分かってるがな」
流が顔をしかめた。
「どうぞよろしくお願い致します。そうそう、今日のお食事代を」「探偵料と一緒にいただくことになってます」こいしが言葉を返した。
「分かりました。ご連絡をお待ちしております。名刺に書いてある携帯にお知らせいただければ」
「承知しました」
流が名刺をたしかめた。
「お供は呼ばんでもよろしいの?」
「今日はすぐ近くのホテルに泊まりますので、散歩がてら歩いていきます」店を出て、弓子がキャリーバッグの引き手を伸ばした。
「暑いさかいに気ぃつけとぅくれやっしゃ」
流が手で陽ひ射ざしを除よけた。
「京都駅ってどちらでした?」
弓子が正面通の左右を見比べた。
「この道をまっすぐ行って、烏丸通に出て南へ行かはったらすぐに駅が見えます。京都タワーが目印ですわ」
流が通りを指差した。
「ありがとうございます。愉しみに待っております」キャリーバッグを引いて、弓子が西に向かって歩き出した。
「何を捜してはるんや」
店に戻って、流が訊いた。
「焼きそば」
こいしが短く答えた。
「焼きそば、て、あの焼きそばかい」
「うん。あの焼きそば」
「親子っちゅうのはありがたいもんやな。これで話が通じるんやさかい」「意外やろ?」
「たしかに思うてたもんとは違うけど、ありそうな話やな」「食べもんとしては、ありそうやけど、話は普通やないで。ドラマを超えるドラマや」「たいそうなこと言うてからに」
流が鼻で笑った。
「ホンマやねんて。お父ちゃんが聞いたらびっくりするで」こいしがパイプ椅子に座って、ノートを広げた。
「びっくりさせてもらおやないか」
向かい合って、流が腰かけた。