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帰国を間近に控えて、慌ただしい日々を送っていた弓子は、なんとか時間を調整してこの日を迎えた。
京都駅の烏丸口を出て、慣れた足どりで烏丸通を北に向かって歩く。迷うことなく正面通を東に折れ、『鴨川食堂』の前に立った。
「にゃーお」
足元でじゃれつくトラ猫を見つけて、弓子は屈かがみこんで頭を撫でた。
「ひるねていう名前なんですよ。いっつも眠たそうにしてるんで」中から引き戸を開けて、こいしが弓子の傍らに屈みこんだ。
「ひるねちゃん。のんびりできていいね」
「ホンマにぎりぎりになってしもうて、すんませんでした」「こちらこそ、間に合わせていただいて本当にありがとうございます。愉しみにして参りました」
赤いトートバッグを持って、弓子が立ち上がった。
「合うてたらええんですけど」
こいしが遠慮がちに応えた。
「おこしやす。遅ぅなって申し訳ありまへんでしたな」店に入ると、白衣姿の流が迎えた。
「ご無理を言いました」
弓子が頭をさげた。
「たぶん合うてると思うんですけどな。もしも違うとったら、かんにんしとぉくれやっしゃ」
流の言葉に、弓子は無言でうなずいた。
「どうぞ」
こいしが引いたパイプ椅子に弓子が腰かけた。
改めて店の中を見回すと、この前の料理がよみがえってくる。どう考えても、この店の設しつらえとは釣り合わない。こういうときに日本では、狐きつねか狸たぬきに化かされたという。父にそう教わった夜のことを弓子は思い出していた。
ひょっとして、この店の存在自体が幻なのかもしれない。でも、それならそれでいい。
すべてが幻だったということにしてしまえば、一からやり直せるではないか。
「何かお飲みになります?」
こいしが訊いた。
「お茶で大丈夫です。酔っぱらってしまったらいけませんので」弓子が笑顔を返した。
「もうすぐできると思うんで、ちょっとだけ待ってくださいね」こいしが小走りで厨房に入っていった。
もしも違っていたら、どんな反応をすればいいのだろうか。もしも合っていたら、自分の心はどう動くのだろう。考えはじめると、胸の中はざわざわと蠢うごめき、息苦しさまで感じてしまう。急用ができたと言って、帰ってしまおうか、とも思う。
好きな人ができた、なんて嘘までついてしまったことも、ためらいの原因だ。
「お待たせしましたな」
流が銀盆に焼きそばを載せて、厨房から出てきた。もう後戻りはできない。弓子は座りなおして背筋を伸ばした。
「こんなんやったんと違いますやろか。ソースはここに置いときますさかい、適当に調整してください」
白い丸皿に盛られた焼きそばの横に、フォークとソース瓶を置いた。
「お水とポットを置いときますよって」
こいしが弓子の右手にトレーを置いた。
「どうぞごゆっくり」
流の言葉とともに、ふたりは厨房に戻っていった。
じっと焼きそばを見つめていた弓子は、おそるおそるフォークを手にとった。
まるでパスタを食べるかのように、茶色い麺をフォークに巻きつけて口に運んだ。
「美味しい」
あのときと同じように小さくつぶやいた。
目玉焼きが載った焼きそばには、ネギと豚肉ともやしが申し訳程度に入っていて、何より茶色い麺があのときと同じだ。須賀原は食べる前にソースをかけるように言ったが、弓子はひと口食べてからにした。同じようにしてみる。まざまざと記憶がよみがえってきて、まるで目の前に須賀原が居るようにさえ思えてきた。
あのとき、目玉焼きの黄身をくずし、麺に絡めてフォークに載せて、ふと思いたったのだった。黄色いフォークを紅あかく染めればいいのだと。
須賀原の気持ちをたしかめたかっただけなのか、本気で人生を変えたかったのか、今となってはそれも分からない。ただ、この焼きそばを食べた、あのときから自分の人生が変わったことだけはたしかだ。弓子はそんな思いにかられながら、黙々と焼きそばを食べつづけた。
須賀原はどんな人生を歩んでいるのだろう。フォークを持つ手がとまった。
「どないです。合うてましたかいな」
厨房から出てきた流に、あわててフォークを動かした。
「つたない記憶ですが、まったく同じだと思います。見た目も味も……」弓子が目を細めた。
「よろしおした。どうぞごゆっくり」
流が横目で皿を見た。
「あのー、どうしてこれを」
立ち去ろうとした流の背中に弓子が声をかけた。
「召し上がってから、ゆっくりお話しさせてもらいます」笑顔を残して、流は厨房の暖の簾れんをくぐった。
店の料理ならともかく、ひとりの素人男性が作った料理なのだから、当然その当事者に訊かないと、同じものを作れるわけがない。きっと須賀原に会って、直接訊きだしたのだろう。となれば須賀原の消息も分かったはずだ。
早く答えを聞きたくて、急いで残りの焼きそばをさらえた弓子は、大きな声を厨房に向けた。
「ごちそうさまでした」
間をおかず、こいしが姿を現した。
「合うててよかったですね」
「おかげさまで、あのころに戻ることができました」「ぼちぼち種明かしをせんとあきませんな」
流がタブレットパソコンをテーブルに置いた。
「よろしくお願いします」
弓子は中腰になって頭をさげた。
「最初は難しい話やと思いましたが、意外に早いこと緒がみつかりましてな」流が弓子の向かいに座った。
「よかったです」
弓子が微笑んだ。
「覚えてはった特徴から、おそらく石いしの巻まき焼きそばやないかと思うたんです」流がディスプレイの地図を見せた。
「石巻。東日本大震災で大きな被害を受けたところですね」弓子が顔を曇らせた。
「須賀原という名前にピンときたんですわ。この石巻焼きそばの育ての親とも言われてはるのが、冬ふゆ元もと製麺所の須賀原さんという方です。わしの推理どおり、あなたに焼きそばを作ってあげはったのは、その息子さんやったんです」「そうだったのですか。そう言えば、いつかは自分も実家の仕事を継がねば、というような話をされてました。製麺所だったんですね」「須賀原徹さんは、十五年前に自分で焼きそばの店を開かはったんやそうです。場所が辺へん鄙ぴやさかいに、あんまり有名やないところにもってきて、一切の取材を断ってはるので、知る人ぞ知る店ですんや」
「あの後、すぐに焼きそば屋さんになられたのですね」弓子は小さくため息をついた。
「食べに行きました。目の前で作らはるんで、作り方はすぐに分かりました。お訊きしたら、開店当初からまったく同じやり方やと言うてはりました。さっき食べてもろたんがそれです」
流が店の様子をディスプレイに映しだした。
「彼とお話しなさったんですか?」
「もちろん、あなたのことはひと言も言うてません。安心しとぅくれやす」流が弓子に笑顔を向けた。
「何ひとつ包み隠さんと、レシピを教えてくれはりました。中力粉を使うて麺を作って、それを一回蒸すんやそうです。そうすると麺が黄色うなって、普通の中華麺みたいになりますけど、それを水で洗うて、もう一回蒸し上げると、今度は麺が茶色うなるそうです。
手間かかってますんやな。後は他の焼きそばと同じような焼き方をするんですが、焼きあがる直前に、出汁を足して蒸し焼きにするんですわ。二回蒸してますさかい、麺が水分を吸収しやすうなっとる。よう考えてあります。焼き上がったら目玉焼きを載せて完成。と思うたら、最後の仕上げは客がすることになってますねん。それがこのソース。自分の好みの味にして食べる。これが須賀原さんの店の石巻焼きそばです」流がディスプレイを操作し、順を追って作り方を説明した。
「それだけ手間がかかってるんやから美味しいはずやわ」こいしが言葉を挟んだ。
「彼は元気に焼きそば屋さんをやってるんですね」弓子がディスプレイに近づけた顔は晴れ晴れとしていた。
「お話しした感じではお元気そうでしたな。常連さんもようけ居られましたし」「そうですか。それを聞いて安心しました」
弓子が手の甲を撫でた。
「これで安心してお嫁にいけますやん」
こいしが弓子に笑顔を向けた。
「そうですね」
弓子がぎこちなく答えた。
「オーストリアでは材料が手に入らへんと思いますけど、いちおうレシピをお渡ししときます。麺とソースは取り寄せできるそうですけど」こいしがファイルケースを手渡した。
「ありがとうございます。この前の食事代と合わせてお支払いを」「この中に振込先が書いてありますんで、お気持ちに見合うた額を振り込んでください」こいしが答えた。
「承知しました」
弓子がファイルケースをトートバッグに仕舞って、引き戸に手をかけた。
「こら。中に入ったらあかんぞ」
見送りに出た流が追い払うと、電柱の陰にかくれて、ひるねが様子を窺っている。
「いっつもこうなんですよ。かわいそうに」
こいしが流をにらんだ。
「猫がお嫌いなんですか?」
「そうやおへんけど、食いもん商売の店に猫が入ってきたらあきまへんやろ」「きびしいんですね」
「プロっちゅうのは皆そうなんと違いますか」流の言葉に、弓子は言葉を返せずにいた。
「今回の最後の教室は、たしか明後日の宇都宮でしたな」流がポケットから取り出して、リーフレットを開いた。
「はい。午前と午後の二回、子どもたちにピアノ教室を開きます」「お時間があるようやったら、松島でも見物なさったらどうですか。東北新幹線に乗らはったらすぐでっせ」
「そうなんですね」
弓子が目を輝かせた。
「まだまだ復興の途中ですけど、旨いもんもありますし是非。向こうで撮ってきた写真やら、旨い店の地図はここに入ってますさかい」流れがデータカードを弓子の手に握らせた。
「ありがとうございます」
弓子はしばらく見つめた後、拝むようにして財布に仕舞いこんだ。
「松島てどの辺やったっけ」
こいしが腕組みをした。
「困ったやっちゃ」
流が苦笑いすると、弓子が頬をゆるめた。
正面通を西に向かって、弓子が歩き始めると、ひるねがひと声鳴いた。
「お気をつけて」
流が背中に声をかけると、弓子が振り向いて一礼した。
「松島て、そんなエエとこなん?」
店に戻るなり、こいしが流に訊いた。
「日本三景のひとつやさかいな」
流がテーブルを拭きながら答えた。
「うちも行ってこうかな」
「お前を待ってる人なんか誰もおらんぞ」
流が厨房の暖簾をくぐった。
「待ってる人……ひょっとして」
こいしが流を追いかけた。
「こんな鈍こいことでは、まだまだヨメには行けんなぁ、掬子。もうしばらく面倒みてやらな、しゃあないわ」
流が仏壇に線香をあげた。
「食捜しはするけど、人捜しはせえへん、てお父ちゃん言うてたのにな」こいしが流の横に座りこんだ。
「弓子さんも食を捜してはったし、わしも食を教えただけや。そこから先のことはしらん」
「お母ちゃん。やっぱりうちのお父ちゃんはええ人やな」こいしが手を合わせた。